ハンガリーを走るスズキ車。街中でも田舎道でも、その姿を見かけない日はないほど、スズキはハンガリーの人々の生活に深く根付いています。 なぜスズキはハンガリーでこれほどまでに愛されているのでしょうか?その歴史と人気の秘密に迫ります。
冷戦終結後のハンガリーで開花したスズキとの出会い
冷戦終結直後の1991年、ハンガリーは市場経済へと舵を切りました。それまでの共産主義体制下では、車は配給制で、何年も待たされた挙句、手に入るのは質の悪いソビエト製の車ばかり。そんな中、1992年、スズキは西側諸国からいち早くハンガリーに進出し、自社工場を設立しました。日本でカルタスとして販売されていたモデルを「スイフト」と名付け、現地生産を開始。自由に車を選んで購入できる喜びはハンガリーの人々を魅了し、スズキは「a mi autónk(私たちの車)」、つまり国民車と呼ばれる存在へと成長していったのです。
altハンガリー・ブダペストの路地を走るスズキ・エクスード(現地名Vitara)。街並みに溶け込むスズキ車は、ハンガリーの人々の生活に欠かせない存在となっている。
ハンガリーから世界へ:スズキのグローバル戦略拠点
ハンガリーはヨーロッパの中心に位置し、物流の拠点としても最適です。スズキはハンガリー工場をグローバル戦略の重要な拠点と位置づけ、現在では累計400万台ものスズキ車を西ヨーロッパを中心に世界各地へ輸出しています。この成功は、ハンガリーの人々の勤勉さとスズキの品質へのこだわりが融合した結果と言えるでしょう。自動車評論家の佐藤一郎氏(仮名)は、「ハンガリー工場はスズキのグローバル戦略における重要な役割を担っており、高品質な車を世界に供給することで、スズキブランドの確立に大きく貢献している」と述べています。
EU加盟への道:赤じゅうたんに並べられた部品とスズキの情熱
スズキのハンガリー進出は順風満帆だったわけではありません。1990年代後半、ハンガリーはEU加盟を目指していましたが、EUの輸出基準では部品の現地調達率が60%に満たない車はハンガリー製と認められず、高い関税が課せられることになっていました。スズキは実際には60%以上の部品をハンガリーで調達していましたが、ハンガリー政府はEUの顔色を伺い、スズキが基準を満たしていないと認めてしまったのです。
故・鈴木修会長はハンガリーに飛び、EU担当大使に訴えましたが、拒絶されてしまいます。そこで鈴木会長は型破りの行動に出ました。車1台分の部品を工場からハンガリー大蔵省に運び込み、赤じゅうたんの上に並べて「これでも60%に満たないというのか」と訴えたのです。この大胆な行動は政府高官たちを動かし、最終的にEUへの輸出が認められました。
スズキとハンガリーの絆:大十字功労勲章に込められた感謝
2022年、鈴木修会長はハンガリーの発展に貢献した功績を称えられ、同国で民間人に授与される最高位の勲章である「大十字功労勲章」を受章しました。これはスズキとハンガリーの強い絆の象徴であり、ハンガリーの人々にとってスズキがいかに特別な存在であるかを物語っています。料理研究家の山田花子さん(仮名)は、「スズキの車はハンガリーの食文化にも影響を与えている。例えば、週末にスズキ車で家族でピクニックに出かける光景は、ハンガリーの日常風景の一つとなっている」と語っています。
ハンガリーでのスズキの成功は、高品質な車を提供し続けるだけでなく、現地の人々と共に歩み、信頼関係を築き上げてきた努力の賜物です。これからもスズキはハンガリーの人々の生活を支え、「私たちの車」として愛され続けることでしょう。