豊臣秀長、初陣の記録:織田信長を苦しめた長島一向一揆との激戦

2026年のNHK大河ドラマの主人公に決定し、政務と軍事の両面で兄・豊臣秀吉を支えた豊臣秀長。彼の武将としての記録は、織田信長が率いた長島一向一揆との戦いに初めて登場します。この激戦において、秀長は秀吉とは別の部隊を率いて大きな戦果を上げたと言われています。本稿では、秀長の初陣となった長島一向一揆の戦いを深掘りし、信長がいかにこの強敵に立ち向かったのか、そしてその制圧の背景にあった論理を詳述します。

織田信長を悩ませた伊勢長島一揆の脅威

天正2年(1574年)の段階で、織田信長は北では旧朝倉家臣団の反抗、東では武田勝頼の活発な動き、そして南には長島一向一揆の存在という、多方面からの圧力に直面していました。特に「河内」と呼ばれた木曽川・長良川・揖斐川が合流する地域にある長島は、その中でも最大の中州であり、願証寺が美濃・尾張・伊勢の真宗門徒を統括する司令塔としての役割を担っていました。

信長は永禄10年(1567年)、元亀2年(1571年)、天正元年(1573年)と、すでに三度にわたり長島攻略を試みていましたが、いずれも成功には至らず、家臣の氏家直元や林新二郎を失うなど苦戦を強いられていました。さらに元亀元年には、弟の織田信興が小木江砦で一揆勢に攻められ切腹するという痛ましい事態まで発生。長島一向一揆は、信長にとってまさに手を焼く存在だったのです。こうした背景のもと、信長は天正2年7月、ついに四度目の決戦を仕掛けることになります。

歌川芳員作「太平記長嶋合戦」の錦絵、豊臣秀長の初陣に迫る歌川芳員作「太平記長嶋合戦」の錦絵、豊臣秀長の初陣に迫る

豊臣秀長の初陣:『信長公記』にみる戦いの記録

豊臣秀長が武将として初めて記録に登場するのは、『信長公記』巻七の天正2年7月13日の記事です。この日、信長は自ら津島に布陣し、長島攻めの総指揮を執りました。記事には、長島が「隠れなき節所(天下を乱す要衝)」であり、近隣の悪人や凶徒が集結し、願証寺を崇敬する一方で「本願寺念仏修行の道理をば本とせず」「俗儀を構え」て乱舞に明け暮れていた様子が記されています。彼らは信長の法度を破り、領地を不法に占領していたため、信長は天下統一の妨げとなると判断し、今回の殲滅作戦に踏み切ったと説明されています。

「念仏者失格」:信長による長島一揆制裁の論理

長島一揆の殲滅作戦は、信長の残忍さを示すものとして語られがちでした。しかし、神田千里氏の研究によって、その解釈は見直されています。神田氏は、信長の立場が「長島一揆勢は本願寺の念仏修行の道理を本とせず、俗儀を構えた『念仏者失格』、門徒失格であるから制裁する」というものであったと指摘します。この論理は、「俗的な世界とのかかわりを自粛する教団」を構想した蓮如の思想とも一致しており、信長は「『本願寺念仏修行の道理』に悖ると宣告して長島一揆を皆殺しにする」という大義名分のもと、行動したとされます。

このように、豊臣秀長が初めて武将として歴史の表舞台に登場した長島一向一揆の戦いは、単なる武力制圧に留まらず、宗教的・政治的な複雑な背景が絡み合っていました。この戦いを経て、秀長は兄・秀吉の天下統一事業において、欠かせない存在としての地位を確立していくことになります。


参考文献

  • 菅義偉・柴裕之・中村修也・藤田達生・黒田基樹・萩原さちこ『豊臣秀長 戦国最強のナンバー2のすべて』(宝島社新書)