近年、「これ以上の経済成長は不要」「人間らしい生活を取り戻そう」といった「脱成長」論や「スローライフ」といった思想が広く提唱され、多くの人々の共感を呼んでいます。モノに溢れた社会において、経済的な拡大よりも心の豊かさや人間関係を重視する考え方は、一見すると非常に魅力的に映るかもしれません。しかし、人気サイエンスジャーナリストは、こうした耳障りの良い論理に潜む“見えない危険性”に対し警鐘を鳴らしています。私たちは本当に成長を止めた世界を目指すべきなのでしょうか。その本質をデータと科学的視点から紐解きます。
「脱成長」論の台頭とその根強い魅力
「大量生産、大量消費、経済成長が第一でいいのか」「欲張りな資本主義ではなく、心豊かな成熟社会に転換するべきだ」――。このような主張は、今日の日本社会でしばしば耳にするフレーズです。多くの論者は、資本主義や消費社会を批判し、経済成長のスピードを緩め、穏やかに暮らすこと、あるいは現状維持に徹することを説きます。中には、日本の成長はすでに終わり、「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい」とまで主張する声もあります。
こうした思想の広がりは、2000年代にフランスの経済学者セルジュ・ラトゥーシュらが提唱した「豊かな国では、経済が成長しても人間の幸福度は上がらない」という主張、「少ないことは豊かである(less is more)」というキャッチフレーズに端を発します。先進国にはすでに十分なモノが溢れており、これ以上の成長を求めても競争が激化するだけでメリットはない、資本主義は限界を迎え、人々の幸福をむしろ下げ始めているため、今後は物質的な豊かさよりも人間関係や生活の質を重視すべきだ、というのがラトゥーシュの主張の骨子です。
経済成長を考えるイメージ
私たちがすでに生活に必要なモノを持ち、新しい家電が劇的に生活を変えるわけではなく、ネット上のコンテンツが一生かけても見切れないほど溢れている現実を考えると、この言葉に説得力を感じる人は少なくないでしょう。無闇に新しいものを追い求めるのをやめ、現状維持を貫いた方が幸せに思えるかもしれません。スローライフやミニマリズムといったライフスタイルへの注目も、こうした価値観の広がりを反映していると言えるでしょう。
経済成長の本質とは何か?抽象的な数字の先に
では、私たちは本当に成長の止まった世界を目指すべきなのでしょうか。成長さえ手放せば、真に豊かな社会は実現するのでしょうか。この問いに答えるためには、まず「経済成長とは何か?」という本質的な問いについて深く考える必要があります。
私たちは「経済が成長している」という言葉を日常的に使いますが、その裏で具体的に何が起きているのかを理解するのは意外と難しいものです。「GDPの成長率」といった言葉は抽象的な数字に過ぎず、それが日々の暮らしとどう関連しているのか実感しづらいのが現状です。脱成長について議論する前に、この「成長」が具体的に何を意味するのかを正確に把握することが不可欠です。データと「成長会計」などの手法を通して、経済成長の具体的なメカニズムを理解することが、脱成長論の是非を問う上での出発点となるでしょう。
まとめ
「脱成長」や「スローライフ」といった概念は、現代社会の消費主義に対するアンチテーゼとして魅力的な側面を持ちます。しかし、その「成長不要」という甘い誘惑の裏には、見過ごされがちな危険性が潜んでいる可能性が指摘されています。私たちは感情的な響きに流されることなく、経済成長が私たちの社会や生活にもたらす本質的な意味と、それが止まった場合に生じうる影響について、科学的データに基づいた冷静な分析が求められます。真に豊かな社会とは何か、その実現のためには何が必要なのかを深く問い直す時期に来ているのかもしれません。


