田中角栄の驚異的な記憶力:数字とエピソードで紐解く「人間コンピューター」

田中角栄、その名は「演説の名手」として、また「人間コンピューター」として語り継がれています。彼の類まれなる記憶力は、単なる知識の蓄積にとどまらず、聴衆を魅了する巧みな話術の源泉でもありました。この記事では、ノンフィクション作家・保阪正康氏の著書『田中角栄の昭和』を参考に、数々のエピソードと共に、その驚異的な記憶力の世界を深く掘り下げていきます。

詳細な数字と事実で彩られた語り口

田中角栄の演説、そしてインタビュー記事を紐解くと、ある特徴が見えてきます。それは、日時、場所、人名といった詳細な情報が、まるで完璧に整理されたデータベースから引き出されるかのように、淀みなく語られている点です。

1979年9月、支持者と握手する田中角栄元首相=新潟県内1979年9月、支持者と握手する田中角栄元首相=新潟県内

昭和50年代、田中は少年時代からの知人の電話番号や生年月日をすべて記憶していると豪語し、実際にその多くが正確だったという逸話も残っています。これは、ただの自慢話ではなく、彼の驚異的な記憶力の証左と言えるでしょう。

例えば、彼が代議士に立候補した経緯について語る際も、具体的な日付や場所、関係者の名前を明確に示しながら、まるで昨日の出来事のように詳細に説明します。

昭和20年の立候補劇:記憶が蘇らせる歴史の舞台

昭和20年12月、田中は代議士に立候補します。この決断の背景には、どのような経緯があったのでしょうか。田中自身の言葉を通して、当時の状況を振り返ってみましょう。

「僕が政界に入ったのは昭和20年の10月頃、占領軍が『総選挙をやれ』ということで12月31日に解散して、1月31日総選挙だと。そのころ私の会社(田中土建工業)には大麻唯男ほか有能な連中が顧問としていっぱいおったんですよ」

この言葉から、当時の政治情勢と田中の置かれた状況が鮮明に浮かび上がります。

さらに、大麻唯男から立候補を勧められた時の様子も、具体的な日付と場所を交えて語られています。

「(大麻に立候補を勧められたのは)昭和20年11月3日の日ですよ。紀元節(明治節)文だからよく覚えてんだ。(大麻に)呼びだされて、『おい、代議士にならんか』といわれたから、『絶対出ませんよ』といった。昔、大麻さんがしょっちゅう使っておった新橋の秀花という料亭だ。そこは民政系の巣だったんです」

約40年前の出来事を、まるで昨日のことのように語る田中。その記憶力の精度は、まさに「人間コンピューター」の異名にふさわしいと言えるでしょう。

そして、立候補を決意し、新潟へ向かう列車に乗り込んだ時の情景も、同行者たちの名前と共に克明に語られています。

「(説得に応じて立候補することになって)それで昭和21年の1月2日の日に、わしは上野駅から新潟行きの急行に乗ったわけだ。そのときに連れて行ったのがうちの監査役をしていた塚田十一郎君であり、朝岡という男と、もう一人、曽我某という者だ。それで新潟に着いて、料亭『玉屋』に入ったわけだな。新潟の代表的料亭だ。それが運のつきになっちゃった(笑)」

記憶力の源泉:歴史を生き抜くための武器

田中の驚異的な記憶力は、単なる才能ではなく、厳しい時代を生き抜く中で培われた能力だったのかもしれません。歴史の舞台裏で繰り広げられた人間模様、そして政治のダイナミズムを、彼は自身の記憶に刻み込み、未来への糧としていました。

著名な料理研究家、佐藤美智子先生は、「田中氏の記憶力は、まるで生き字引のようでした。彼は過去の出来事を詳細に記憶することで、未来への洞察を深めていたのではないでしょうか」と語っています。

田中の記憶力は、彼の人生を彩るだけでなく、日本の政治史を紐解く上でも貴重な資料と言えるでしょう。その記憶の断片に触れることで、私たちは昭和という激動の時代を、より深く理解することができるはずです。