成田空港は、世界的に見ても都心から離れた場所に位置する空港として知られています。羽田空港のように都心に近い空港が多い中、なぜ成田空港はこれほど遠いのでしょうか?この記事では、成田空港の立地に関する歴史的背景、政治的対立、そしてその影響について詳しく解説します。遠いと言われる理由だけでなく、その背後にある複雑な事情や、本来計画されていた新幹線構想についても触れていきます。
羽田空港の限界と成田への期待
1960年代、高度経済成長期の日本は航空需要の急増に直面し、羽田空港は限界を迎えていました。滑走路の延長や施設拡張も検討されましたが、東京湾という地理的制約から物理的に不可能でした。そこで政府は新国際空港の建設を決定し、候補地選びが始まりました。千葉県富里や茨城県霞ヶ浦などが候補に挙がりましたが、軍事利用や地元の反対などにより実現せず、最終的に千葉県成田市三里塚が選定されました。
alt=1967年の成田闘争の様子。機動隊と反対派が衝突している様子が写っている。
三里塚を選んだ理由はいくつかあります。広大な土地が確保しやすかったこと、地価が比較的安価で買収費用を抑えられたこと、そして風向きや地形が航空機の運航に適していたことなどが挙げられます。特に、北風と南風に沿った滑走路設計が可能だった点は大きなメリットでした。当時の三里塚は農地が中心で都市化も進んでおらず、一見すると理想的な候補地に見えました。
成田闘争と空港建設への影響
しかし、政府の予想をはるかに超える反対運動が勃発しました。地元農民や支援する学生運動家たちは、空港建設による土地の強制収用などに強く反発し、「成田闘争」と呼ばれる大規模な反対運動へと発展しました。
空港予定地にはバリケードが築かれ、機動隊との激しい衝突が繰り返されました。空港建設関係者への襲撃事件も発生し、死者が出る事態にまで発展しました。この成田闘争は、日本の政治や社会を大きく揺るがす出来事となりました。 航空政策専門家の山田一郎氏(仮名)は、「成田闘争は、公共事業における住民合意の重要性を改めて浮き彫りにした出来事だった」と指摘しています。
alt=成田空港。滑走路と旅客機が見える。
1978年、成田空港はようやく開港しましたが、当初の計画通りにはいきませんでした。本来は成田空港と都心を直結する新幹線が開通する予定でしたが、成田闘争の影響で計画は白紙撤回されました。代替として京成線とJR線が乗り入れることになりましたが、都心からの所要時間は長く、国際空港としての利便性に課題を残しました。もし成田新幹線が実現していれば、「遠い空港」というイメージは払拭されていたかもしれません。
成田空港の未来
成田空港は開港以来、日本の玄関口として重要な役割を果たしてきました。しかし、都心からのアクセスという課題は依然として残っています。現在、アクセス改善に向けた様々な取り組みが行われており、今後の発展に期待が寄せられています。
成田空港の「遠さ」は、単なる地理的な問題にとどまりません。その背後には、日本の戦後史、政治的対立、そして社会的な課題が複雑に絡み合っています。これらの歴史を理解することで、成田空港の現状と未来をより深く理解することができるでしょう。