「今太閤」と称されるほど角栄ブームをつくり出した田中角栄は、なぜ政治生命を絶たれたのか。ノンフィクション作家・保阪正康さんは「きっかけは『文藝春秋』に掲載された立花隆・児玉隆也レポートだった」という。著書『田中角栄の昭和』(朝日文庫)より、一部を紹介する――。
■『文藝春秋』が放った特大スクープ
月刊『文藝春秋』の発売日は毎月10日である。昭和49年11月号が店頭に並んだのは10月10日からであった。
表紙には大きく「田中角栄研究――その金脈と人脈」「淋しき越山会の女王」とあり、前者は田中角栄が一土建業者から出発して自らの企業をふやす一方での、土地ころがしなどでの資金づくりの実態を克明に追いかけたものだった。
田中の資産についても、許される範囲であらゆる資料や記録文書を集めて批判を行っていた。ここに紹介された内容はたしかに新聞記事でこれまでも単発的にとりあげられたことはあるが、こうしてまとまってみると、田中の資金づくりはまさに法の網の目をくぐりぬけての巧妙な方法であり、もともと節税とか脱税というのにはそれほどこだわっていないのではないか、ということが明らかになった。
■「ペンは剣よりも強し」を実演した
越山会の女王とは、田中の秘書兼金庫番とされていた佐藤昭だった。彼女は、政治的な隠れみのに利用できるほど有能な女性でもあった。その実像がルポライターの児玉隆也の筆によって暴かれたのだ。
田中金脈研究は、やはりジャーナリストの立花隆の筆になるのだが、改めてこうして時間を置いてみるとこの二本の論文、あるいはレポートが田中首相を退陣に追い込んでいったことが、よくわかる。まさにペンは剣よりも強し、という光景が演じられたのである。
月刊『文藝春秋』の11月号は、たちまちのうちに書店から消えていった。月刊誌が刷り増しされることはあまり例がなかったのだが、この号は珍しく刷り増しを行っている。
この月刊誌について、自民党の総務会でも「この記事は本当か。きわめて遺憾な内容である。田中首相はなんらかの手を打つべきである」の論も起こった。
これに対して田中をもっとも強力に支えている幹事長の橋本登美三郎が「ここにとりあげている記事はいずれも総裁就任以前であり、さして問題にならない」と軽く受け流した。確かにそれが田中の受け止め方でもあった。不必要に弁明したり、反論したりすると、それ自体が利用されてしまうというのである。