「おれはヤクザ者だ」「オヤジに何かあったら体をかけて守る」“伝説のヤクザ”稲川聖城と“日本一の右翼”児玉誉士夫の深すぎる関係性


【衝撃画像】イカツすぎる…“日本一の右翼”児玉誉士夫の素顔写真を見る

 昭和最大の黒幕として、政界や経済界に絶大な影響力を誇った児玉誉士夫。7歳で母を亡くし、関東大震災で父を亡くして孤児となった児玉は戦前、中国・朝鮮半島で暗躍。戦後は自民党創設にも関わり、ロッキード事件で倒れるまで日本の政財界に影響を持ち続けた。

「事件の陰に児玉あり」と言われるほどの影響力があった児玉誉士夫とは、いったい何者だったのか。ここでは、児玉の生涯に迫った大下英治氏の著書 『児玉誉士夫 黒幕の昭和史』 (宝島社)より一部を抜粋。“日本一の右翼”児玉誉士夫と、稲川会“伝説のヤクザ”稲川聖城の関係を紹介する。(全3回の3回目/ 1回目 から読む)

◆◆◆

「おれは、ヤクザ者だ」ロッキード事件後、稲川が児玉の家に顔を出さなかった理由

 稲川は、稲川会本部の奥の会長室で、理事長の石井進ともども見舞いにいくべきかどうか、迷っていた。世田谷区等々力の児玉邸に押しかけては、マスコミの餌食になる。

〈おれは、ヤクザ者だ〉

 そのおれが、このような事件のさなかに真っ先に児玉邸にいけば、マスコミは、児玉とおれとの関係をまるで鬼の首でも取ったように書きたてるにちがいない。児玉にとって、不利な展開になることになる。

〈おれが見舞いにいかないほうが、かえって親孝行になる〉

 稲川は、事件のほとぼりが冷めるまで、児玉邸には顔を出すまい、と心に決めた。

 ただし、稲川は、児玉邸に電話を入れた。秘書の太刀川恒夫が出た。稲川が昭和35年の60年安保の後、児玉邸に単身乗り込んだとき、案内したのが秘書の太刀川だった。

 当時は新入りの秘書であった。昭和38年から41年までの4年間は、のちに総理大臣になる中曾根康弘の秘書として修業し、この当時はふたたび児玉の秘書に戻っていた。



Source link