無念の碑に刻まれた酪農家の想い 〜 福島原発事故、牛40頭との別れ

東日本大震災、そして福島第一原発事故。未曽有の災害は、多くの命を奪うだけでなく、人々の生活、そして心に深い傷跡を残しました。南相馬市小高区で酪農を営んでいた半杭一成さん(75歳)もまた、この事故によって人生を一変させられた一人です。彼は愛牛40頭と、そして40年間続けてきた酪農という仕事との別れを余儀なくされました。この記事では、半杭さんの無念の想いと、原発事故が生み出した悲劇についてお伝えします。

40頭の牛と突然の別れ

半杭さんは、自宅近くの牛舎で40頭の牛を飼育していました。原発事故発生時、避難を余儀なくされた半杭さんは、牛たちを置いて逃げるという、苦渋の決断を下しました。「5、6頭は生き延びるかなと思ってたんだけどね…」と、半杭さんは当時を振り返ります。避難指示が出た当初は、1週間ほどで戻れると考えていたそうです。しかし、事態はそう簡単ではありませんでした。獣医師に電話で相談したところ、「無念です」と言われた言葉が、半杭さんの胸に深く突き刺さりました。

alt=無念の文字が刻まれた石碑の前に立つ半杭さん。背景には使われなくなった牛舎が見える。alt=無念の文字が刻まれた石碑の前に立つ半杭さん。背景には使われなくなった牛舎が見える。

餌をやらないという選択

半杭さんは、避難中、牛たちに餌を与えないという選択をしました。餌を与えると乳が出ますが、搾乳できない牛たちの乳房は腫れ上がり、激しい痛みをもたらします。牛たちの苦しみを少しでも減らしたい、そんな一心からの決断でした。 この決断が、後々まで半杭さんを苦しめることになります。

一か月後の再会、そして…

約1か月後、親戚の結婚式に出席するため一時帰宅した半杭さんは、牛舎から牛たちの鳴き声を聞きました。生きている牛がいる。安堵とともに、牛たちに合わせる顔がないという思いが込み上げてきました。礼服を取り、牛舎を見ることなく、半杭さんは自宅を後にしました。

40年間の酪農との訣別

牛たちの最期を確かめたのは、事故から数か月後の6月のことでした。市役所の職員を案内するため、防護服を着て自宅に戻った半杭さんは、牛舎のシャッターを開けました。そこには、ギンバエがたかる牛たちの無残な姿がありました。「これが自分が40年間やってきたことか」。柱には、飢えた牛たちがかじった跡が残っていました。言葉を失い、涙さえも流れませんでした。

牛は家族同然

半杭さんにとって、牛たちは家族同然の存在でした。酪農の仕事は朝早くから夜遅くまで、牛たちの世話に明け暮れる毎日。餌やり、搾乳、そして出産があれば夜中でも1時間おきに牛舎を見回るなど、牛中心の生活を送っていました。
「牛さんは家族同然だったよ」と語る半杭さんの言葉には、牛たちへの深い愛情が込められています。だからこそ、牛たちを餓死させてしまったという自責の念は、今もなお半杭さんの心を締め付けています。「やってはいけないことをしてしまった。一番ひきょうなことをした」。半杭さんは、自分を責め続けています。

alt=福島県浪江町で保護された猫。原発事故後、置き去りにされたペットが野生化しているケースも多い。alt=福島県浪江町で保護された猫。原発事故後、置き去りにされたペットが野生化しているケースも多い。

無念の碑に込められた想い

今では酪農をやめ、近くの牧場でトラクターに乗る日々を送る半杭さん。かつての生活を思い出し、喜びを感じながらも、牛たちへの想いは消えることはありません。牛舎の近くの小高い丘には、「無念」の一文字が刻まれた石碑が建てられています。これは、半杭さんの自責の念の表れであり、二度とこのような悲劇を繰り返してはならないという強いメッセージでもあります。

未来への教訓

半杭さんの物語は、原発事故の残酷さを改めて私たちに突きつけます。そして、動物たちの命の尊さ、そして人間と動物の絆について深く考えさせられます。この悲劇を風化させることなく、未来への教訓として語り継いでいくことが大切です。