美智子さま91歳ご誕生日に寄せて:「香淳皇后実録」が明かす秘められた歴史と嫁姑問題の真相

10月20日に91歳のお誕生日を迎えられた上皇后美智子さま。例年お庭で撮影されるお誕生日用の写真が、今年は上皇さまのご体調への配慮からか、仙洞御所内で撮影されたことが報じられました。そのお祝いムードの中、宮内庁からは「香淳皇后実録」が公開され、近代皇室の知られざる側面が再び注目を集めています。特に、長年語られてこなかった美智子さまご成婚時の複雑な状況、そして香淳皇后との間にあったとされる「嫁姑問題」の真相が、公にされない形で歴史の陰に秘められていたことが明らかになりつつあります。

長大な「香淳皇后実録」が語る昭和天皇との絆

宮内庁が10月9日に公開した「香淳皇后実録」は、2000年に崩御された昭和天皇の皇后・香淳皇后の97年間にわたる生涯を記録したものです。全3800ページに及ぶこの実録は、歴代皇后の中でも最長寿であった香淳皇后の波乱に満ちた人生を詳細に描いています。近現代の皇室史に詳しい静岡福祉大学名誉教授の小田部雄次さんは、「ただ一人の伴侶として、そしていちばんの理解者として、昭和天皇を公私にわたり支えていたことが伝わってきます」と語ります。太平洋戦争中には、「銃後を守る女性」のリーダーとして国民を鼓舞し、戦後は、国土再建に尽力する昭和天皇に寄り添い続けた香淳皇后の姿は、多くの国民に強い印象を与えました。

91歳のお誕生日を迎えられた美智子さまと上皇さま、仙洞御所内で撮影された近影91歳のお誕生日を迎えられた美智子さまと上皇さま、仙洞御所内で撮影された近影

秘められた「嫁姑関係」:美智子さまご成婚への複雑な思い

しかし、この長大な実録には、公には触れられなかった「歴史」も存在します。その一つが、美智子さまとの「嫁姑関係」です。久邇宮家出身で生まれながらの皇族であった香淳皇后は、一般庶民出身の美智子さまのお輿入れに当初、反対の意を示していたとされています。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政氏の著書『入江相政日記』には、香淳皇后が義妹たちに「東宮様(上皇さま)の御縁談について平民からとは怪しからんといふやうなことで皇后さまが勢津君様(秩父宮妃)と喜久君様(高松宮妃)を招んでお訴へになつた由」(1958年10月11日付)と不満を漏らしていた記述があります。
皇室担当記者によると、宮内庁は実録の編纂において「確実な資料に基づき、客観的事実を記述する」という方針を取ったものの、『入江相政日記』の内容については「他人からの伝聞が記載され、皇后の発言かどうかが確定できなかった」と説明しています。しかし、宮内庁が宮中の嫁姑の確執を赤裸々に記録に残すことを躊躇した側面もあるのかもしれません。

お妃教育やパレードにまで及んだ香淳皇后のご不満

香淳皇后の美智子さまに対する複雑な思いは、ご成婚準備の様々な場面でも表れていたと伝えられています。『入江相政日記』には、お妃教育の場所やご成婚パレードの馬の頭数に関する不満も記録されています。「美智子さんの教育に呉竹寮(昭和天皇の皇女用の住居)を使ふことを昨日お上(昭和天皇)はいゝとおつしやつたのに皇后さまはいけないとおつしやつた由。まだモヤモヤがあるらしい」(1958年12月9日付)や、「皇后さまが今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だった、憤慨だとかおつしやつたとの事」(1959年3月12日付)といった記述がそれです。これらのエピソードは、当時の皇室における慣習や伝統、そして皇族と庶民という出自の違いがもたらしたデリケートな感情の機微を浮き彫りにしています。小田部さんは、こうした香淳皇后の不満の背景には、皇室の伝統を守ろうとする強いお気持ちがあったと推察しています。

参照元

  • Yahoo!ニュース
  • 女性自身
  • 入江相政日記