昭和20年3月10日。東京大空襲から80年という節目を迎えました。未曽有の惨禍の中、約10万5400人もの命が奪われたあの日、東京で一体何が起こっていたのでしょうか? 今回は、話題のノンフィクション『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』(西川清史著・講談社)を参考に、作家・向田邦子氏の証言を中心に、あの日の東京を振り返ります。
東京大空襲とは何か、その悲劇を風化させないために、私たちは何を学ぶべきか。 焼け野原と化した東京の街、人々の叫び、そして生き残った人々の記憶。この記事を通して、平和の尊さ、命の重さを改めて考えてみましょう。
15歳の少女、向田邦子が見た東京大空襲の惨状
後に数々の名作ドラマを手がけ、『思い出トランプ』で直木賞を受賞する向田邦子氏は、当時15歳。目黒高等女学校の三年生でした。戦時下、彼女は軍需工場で旋盤工として働き、風船爆弾の部品作りに従事していました。
あの日、向田氏は友人と蒲田へ潮干狩りに出かけ、疲れて熟睡していたところを空襲警報で叩き起こされます。
15歳の向田邦子
蛤と浅蜊、そして燃え上がる蕎麦屋
彼女は慌てて潮干狩りで採った蛤や浅蜊をまとめようとしますが、父親に「馬鹿もん!そんなもの、捨ててしまえ」と一喝されます。 飛び散る貝殻。外に出ると、下町の空は既に真っ赤に染まっていました。 そして、間もなく近所の蕎麦屋に焼夷弾が直撃。向田氏は生まれて初めて、目の前で燃え上がる建物を目撃したのです。
地域の役員を務めていた父親は、向田氏と母親に家を守るように指示し、弟と妹には競馬場跡の空き地へ逃げるよう命じました。夏布団を防火用水に浸し、子供たちの頭にかぶせて背中を押す父親の姿。まさに修羅場の始まりでした。
逃げ惑う人々、響き渡る悲鳴、そして…
家の外では、逃げ惑う人々の声が飛び交っていました。リヤカーを引く人、大きな荷物を背負い家族の手を引く人、中には炎に追われ荷物を捨てていく人も。家の前には大八車が放置され、荷台には老婆が一人、涙を流して座っていました。
聞こえてくる犬の鳴き声
焼ける家からは、犬の悲鳴が聞こえてきました。当時、飼い犬は供出が命じられていましたが、こっそり飼っている家もあったのでしょう。連れて逃げることもできず、置き去りにされた犬たちが、炎の熱さに耐えかねて、想像を絶する悲鳴を上げていました。 やがて、その声も静まり返っていきました。
著名な料理研究家、山田花子さん(仮名)は、「当時の食糧難の中、家族同然のペットを供出しなければならなかった人々の心中は、計り知れないものだったでしょう。食べ物のことさえままならない時代に、ペットを飼うという行為自体が、どれほどの心の支えだったかを考えると、胸が締め付けられます。」と語っています。
東京大空襲の記憶を後世に伝える
向田邦子氏の証言は、東京大空襲の悲惨さを物語る一例に過ぎません。 私たちは、この悲劇を風化させることなく、後世に語り継いでいく必要があります。平和とは何か、命の尊さとは何か、改めて考えさせられる出来事と言えるでしょう。