東京大空襲から80年:作家・有馬頼義が見た、焦土と化した東京の現実

1945年3月10日の東京大空襲から80年。未曾有の大災害で10万5400人もの尊い命が奪われました。焼け野原と化した東京で、人々は何を思い、どのように生き延びたのでしょうか。今回は、作家・有馬頼義氏の著書『隣りの椅子』から、大空襲後の東京の惨状を克明に描いた記録をご紹介します。作家たちの目を通して、あの日の記憶を風化させないために、共に振り返ってみましょう。

焼け野原と化した東京での授賞式への道

3月10日の大空襲から2ヶ月後の5月25日。有馬頼義氏は、自身の戯曲が受賞した授賞式に出席するため、帝国ホテルへ向かう必要がありました。しかし、東京の交通網は壊滅状態。経堂の自宅から帝国ホテルまでは、徒歩で3、4時間かかる距離です。学生服姿の有馬氏は、自転車を借りて出発しました。

道玄坂の惨状

三軒茶屋、渋谷と進むにつれ、街の被害の深刻さが増していきます。そして、道玄坂に差し掛かった時、有馬氏は言葉を失いました。目の前に広がっていたのは、黒焦げになった無数の遺体で埋め尽くされた光景だったのです。

黒焦げになった遺体で埋め尽くされた道玄坂黒焦げになった遺体で埋め尽くされた道玄坂

まるで地獄絵図のような光景の中、誰かが作ったのか、遺体の間を縫うようにして一本の細い道ができていました。自転車のブレーキが壊れていることに気づいた有馬氏は、自転車を担いでこの道を進むしかありませんでした。

遺体に触れないよう、一歩一歩慎重に足を進める有馬氏。自転車の重さと、遺体を踏んでしまうかもしれない恐怖が、彼に重くのしかかります。汗が流れ、手足がしびれ、疲労困憊になりながらも、有馬氏は帝国ホテルを目指し歩み続けました。

焦土と化した街の匂い

あたりには、焦げた匂いが立ち込めていました。建物の焦げた匂い、そして、遺体の焦げた匂い。焼却炉の近くで感じるような生々しい匂いとは少し違い、木が焦げる匂いが強く感じられたと、有馬氏は記しています。

道玄坂の死体の山を抜けると、人気のない、廃墟と化した街並みが続いていました。5月25日の空襲は、東京に止めを刺す最後の一撃となり、街は完全に破壊し尽くされてしまったのです。

東京大空襲の記憶を後世に伝える

有馬頼義氏の記録は、東京大空襲の悲惨さを改めて私たちに突きつけます。焼け野原となった東京で、それでも生きようとした人々の姿を想像すると、胸が締め付けられます。東京大空襲から80年。私たちは、この歴史的事実を決して忘れてはなりません。平和の尊さを改めて認識し、未来へと語り継いでいくことが、私たちの責務です。 食糧事情の悪化やインフレ、そして度重なる空襲の中で、人々はどのように暮らしていたのか。当時の生活を想像してみることで、平和の尊さを改めて感じることができるのではないでしょうか。

歴史研究家の保阪正康氏も、「第一級の証言」と絶賛する『荷風たちの東京大空襲 作家が目撃した昭和二十年三月十日』(西川清史著・講談社)には、他にも多くの作家たちの証言が収録されています。興味のある方は、ぜひ手に取ってみてください。