宇野千代:奔放な生き様が文学を彩った「女流作家」の真実

川端康成に「もっともすぐれた叙情作家」と称された宇野千代は、大正、昭和、平成の三時代を駆け抜け、世間が思い描く「奔放な女流作家」のイメージをまさに体現して生きました。特に、薬物に溺れながら男たちの間を渡り歩いた30歳前後の日々を「青春」と振り返るその壮絶ながらも正直な生き方は、多くの読者を惹きつけます。この記事では、宇野千代の波乱に満ちた生涯と、それが彼女の文学にいかに深く影響を与えたのかを紐解きます。

大正から平成を生きた女流文豪、宇野千代の若き日の肖像大正から平成を生きた女流文豪、宇野千代の若き日の肖像

華々しい文学的デビューと自立の萌芽

宇野千代の文学者としてのキャリアは、大正10年(1921年)に「時事新報」と「中央公論」が主催した懸賞小説で、初の短編『脂粉の顔』が一等当選したことから始まりました。続く第二作『墓を暴く』では、現代の約250万円に相当する高額な原稿料を現金で受け取ったといい、この成功が、彼女の中でそれまで大切にしてきた価値観を大きく揺るがす経験となったと語っています。この時期、北海道に住んでいた宇野は、この喜びを当時の夫である藤村忠(『私の文学的回想記』では「Tさん」)に伝えようとは思いつかなかったと言います。彼女の心はすでに新たな場所へと向かい始めていたのです。

愛と破滅の間で:「世話女房」から「動物状態」へ

文学的成功を収めた宇野は、懸賞小説で二等だった作家・尾崎士郎と出会い、大正11年(1922年)には二番目の夫である藤村を捨て、尾崎と結婚します。この時、彼女は尾崎に対し献身的な「世話女房」として尽くし続けました。しかし、その生活に次第に物足りなさを感じ始めた宇野は、尾崎との離婚直後、薬物に溺れながら複数の男性と関係を持つ日々を送ります。この30歳前後の混乱した時期を、宇野自身は後に「青春」と振り返り、「動物状態」という強烈な言葉で表現しています。この破天荒な経験こそが、宇野千代の人間性と文学に深い陰影を与え、彼女独自の作風を形作る源泉となっていきました。

作家・尾崎士郎と結婚した頃の宇野千代。彼女の波乱に満ちた恋愛遍歴の一端作家・尾崎士郎と結婚した頃の宇野千代。彼女の波乱に満ちた恋愛遍歴の一端

東郷青児との劇的な出会いと創作への昇華

アラサーの「青春」の最後に宇野千代を待っていたのは、フランス帰りの新進気鋭の洋画家・東郷青児との劇的な出会いでした。『私の文学的回想記』によれば、「街の酒場」で心中未遂事件を起こし世間の注目を集めていた東郷にナンパされ、そのまま彼の家にお持ち帰りされます。そして翌朝、二人が共に寝た布団に夥しい血痕を見つけたにもかかわらず、宇野は「逆に、ぴたっとそこに居つく気になった」と語っています。この衝撃的な出来事が、彼女を東郷のもとへ強く引き止めたのです。

宇野は再び「世話女房」として、金のない東郷のために彼の作品を売りさばき、世田谷区・淡島に家を建て、美しく飾り付けました。しかし、この「世話女房」という役割に再び飽き足らなくなった宇野は、千駄ヶ谷駅のホームが見える一軒家を借りて仕事に没頭し、世田谷の家にはほとんど帰らなくなります。そして、東郷の心中未遂事件の話を聞き書きし、それを題材にして出世作『色ざんげ』を書き上げました。後年の宇野とは異なる、濃密で独特な文体が印象的なこの作品は、大ヒットを記録し、宇野千代の地位を不動のものとしました。結局、宇野に置き去りにされた東郷は、心中未遂の相手・盈子と復縁し、宇野との関係はあえなく終焉を迎えました。

結論

宇野千代の生涯は、社会の常識や期待に囚われることなく、自らの感情と欲望に正直に生きた一人の女性の軌跡であり、それがすべて彼女の文学作品へと昇華されました。献身的な「世話女房」としての顔、そして薬物と恋愛に明け暮れた「動物状態」の日々を「青春」と呼ぶ潔さ。そのすべてが宇野千代という類稀な女流作家を形作り、彼女の作品群は今もなお、読者に強烈な印象と深い洞察を与え続けています。彼女の生き方は、現代を生きる私たちにとっても、自己を貫くことの強さと自由を問いかける普遍的なテーマを提示しています。

参考文献

  • 堀江宏樹『文豪 不適切にもほどがある話』(三笠書房)
  • 宇野千代『私の文学的回想記』(中央公論新社)