豊臣秀吉と秀長の絆:鶴松誕生が揺るがした豊臣家の運命と関白継承の謎

来年のNHK大河ドラマの主人公として注目される豊臣秀長。その兄である天下人・豊臣秀吉との関係は、日本の歴史を深く探る上で重要なテーマです。特に、秀吉の嫡男・鶴松の誕生は、兄弟の絆のみならず、豊臣家の将来、そして関白職の行方にも大きな波紋を広げました。この記事では、歴史の謎を探る会が編纂した『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』を参考に、鶴松の誕生が豊臣政権にもたらした激動の時代背景と、秀吉が直面した「二つの正義」の葛藤について深掘りしていきます。

豊臣家の命運を変えた鶴松の誕生

淀殿が男子を出産した際、秀吉は「棄丸(すてまる)」と名付けました。これは「捨て子はよく育つ」という当時の迷信に由来するものです。後に「鶴松(つるまつ)」と改名されますが、その時期や理由は詳らかではありません。鶴松が誕生した天正17年(1589年)、秀長は秀吉の命を受けて淀城の普請(工事)に携わっていました。この普請は淀殿の居城となることを想定しており、鶴松誕生を間近に控えていた状況を示唆しています。秀長が淀城から大和郡山へ帰還した約2週間後に鶴松が誕生し、秀吉の喜びは最高潮に達しました。

天下統一を成し遂げ、実子鶴松の誕生に喜びつつも後継者問題に揺れた豊臣秀吉の肖像。天下統一を成し遂げ、実子鶴松の誕生に喜びつつも後継者問題に揺れた豊臣秀吉の肖像。

嫡男の誕生は、豊臣家の後継者問題を大きく揺るがしました。『鹿苑日録』には、鶴松誕生から間もない6月6日には早くも「当壁(後継者指名)の命」があったと記されています。これにより、これまで養子や血縁者による後継者候補が見直され、有力候補と目されていた豊臣秀秋もその地位を失い、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)へ飛ばされました。おそらく、秀長や秀次への政権移行計画も白紙に戻されたことでしょう。鶴松誕生の報せを受けた諸大名は、続々と秀吉のもとに参上し、祝賀の言葉と品々を贈りました。同年9月には、公家や大名の行列を伴って大坂城へと上坂し、鶴松が「生まれながらの天下人」であることを世間に知らしめています。翌天正18年(1590年)2月13日には聚楽第(じゅらくだい)に入り、北政所や有力な公家たちを招いて盛大な宴が催されました。満1歳にも満たないうちから各地でお披露目されたことは、秀吉がいかに鶴松の誕生を喜び、大きな期待を寄せていたかを物語っています。

秀吉を揺さぶった「二つの正義」と関白職の行方

しかし、鶴松の誕生とそれに伴う権力移行の計画白紙化は、秀吉と豊臣一門との間に亀裂を生じさせる要因ともなりました。特に混乱を招いたのが、関白職の行方でした。秀吉は、近衛家と二条家間の争論を巧みに利用して関白の座に就き、豊臣姓を賜ることで、自らの血筋が関白職を継承していく体制を築き上げていました。

しかし、実子が不在であったため、関白の継承先は明確ではありませんでした。『関白職幷六宮御身躰文書案』によると、秀吉は後陽成天皇の弟である六宮(後の八条の宮智仁親王)に関白職を譲与する予定でした。これは、関白職を将来的に近衛家へ返還するという約束の上での就任であったため、六宮への譲与は明らかな盟約違反となる可能性を秘めていました。それでも秀吉は、後陽成天皇との間で「御契約」を結び、六宮を猶子(ゆうし:実の親子ではないが、親子関係を結んだ者)としていました。この奏上時期は、聚楽第行幸の際、あるいはその直前とされています。相手が天皇の弟であったため、近衛家もこれに異を唱えることができず、関白の後継問題はひとまず解決をみたかに思われました。

ところが、ここで嫡男・鶴松の誕生という予期せぬ出来事が起こります。後陽成天皇は、六宮との契約を白紙に戻し、鶴松に関白職を譲るべきだという意見を秀吉に伝えました。しかし秀吉は、「六宮様との御契約を破るのは忍びなく、鶴松もまだ幼少であるため先はわからない」と述べ、この提案を辞退しました。これは、既存の約束と自身の血筋による継承という二つの「正義」の間で、秀吉が深い葛藤を抱えていたことを示しています。

結び

豊臣秀吉の嫡男・鶴松の誕生は、秀吉個人の喜びであると同時に、豊臣政権全体に大きな影響を与えました。後継者問題の再編、豊臣一門内の潜在的な亀裂、そして関白職を巡る複雑な政治的駆け引きは、天下人としての秀吉が直面した困難な選択を浮き彫りにします。実子を熱望する秀吉の人間的な側面と、政治家としての約束や責任を全うしようとする姿勢が交錯し、その決断が後の豊臣家の運命を大きく左右することとなりました。鶴松の存在が短命に終わったとはいえ、その誕生が豊臣政権史における重要な転換点であったことは疑いようがありません。

参考文献

  • 歴史の謎を探る会(編)『秀長と秀吉 豊臣兄弟の謎がわかる本』(KAWADE夢文庫)