老後「人生こんなはずじゃなかった」を防ぐたった1つの心がまえ
世界的名著『存在と時間』を著したマルティン・ハイデガーの哲学をストーリー仕立てで解説した『あした死ぬ幸福の王子』が発売されました。ハイデガーが唱える「死の先駆的覚悟(死を自覚したとき、はじめて人は自分の人生を生きることができる)」に焦点をあて、私たちに「人生とは何か?」を問いかけます。なぜ幸せを実感できないのか、なぜ不安に襲われるのか、なぜ生きる意味を見いだせないのか。本連載は、同書から抜粋する形で、ハイデガー哲学のエッセンスを紹介するものです。
● 今までの人生に後悔はありませんか?
【あらすじ】
本書の舞台は中世ヨーロッパ。傲慢な王子は、ある日サソリに刺され、余命幾ばくかの身に。絶望した王子は死の恐怖に耐えられず、自ら命を絶とうとします。そこに謎の老人が現れ、こう告げます。
「自分の死期を知らされるなんて、おまえはとてつもなく幸福なやつだ」
ハイデガー哲学を学んだ王子は、「残された時間」をどう過ごすのでしょうか?
【本編】
● 「死」が差し迫るとき、人は何を思うのか?
しばらく経ったある日のこと、先生との会話の中で、またしても心に突き刺さりそうな単語が飛び出してきた。
「え? 良心(りょうしん)ですか?」
「ああ、そうだ。ハイデガー哲学の核心とも言える重要な概念―それが良心だ。今日はその話をしようと思う」
良心―それは哲学用語とは思えないほど、あまりにも日常的な言葉。私は嫌な予感がしていた。その言葉から予想される結論がとても安易なものになりそうだと思えたからだ。
「良心というと、道徳的な善悪を判断する人間の心のことでしょうか?」
「うむ、そうだな。悪いことをすると良心が痛む―とよく言うが、まずはそのイメージでかまわない。順を追って説明しよう。先日も話したが、人間が本来的に生きるためには『死の先駆的覚悟』が必要だという話は覚えているだろうか?」
「はい。人間が今この瞬間にでも死ぬ存在であることを受け入れて生きよ、ということですね」
「そうだ。だが、こんな疑問はわかないだろうか。実際に人間は先駆的覚悟などできるのだろうか、と」
私は首を縦に大きく振った。
「はい。まさにその疑問を持っていました。私も含めてですが、普通の人々にそんな覚悟ができるとは到底思えません」
実践できない理論なら、それは机上の空論であり、ただの理想論にすぎない。死の宣告を受けた自分ですら受け入れられないことを、誰ができるというのだろうか。
「それに対するハイデガーの答えが『良心』だ。つまり、人間には『良心』があるから死の先駆的覚悟ができる、ということだな」
「……」
● 「良心」とは何なのか?
「どうした? うさんくさく感じているのかな?」
「正直に言えばそうですね。ようするに、道徳的に立派な善人ならば自分の死を受け入れることができる、そして、良心はどんな人間にもあるのだから、みんなにだってできるはずだ―というお話ですよね。なんだかとてもお説教くさいというか、綺麗事のような気がします」
そして、先駆的覚悟ができていないのだから私には「良心がない」という話でもある。いや、それを認めることはかまわないのだが、見ることもできない心の有無を問題にされても、誰にもどうしようもできないじゃないか。おそらく、次はきっとこう言うのだろう。もっと良心を持て、おまえにならできる、と。国に不幸が起きるたびに信仰心が足りないと言ってくる僧侶たちの決まり文句と同じだ。
不満げな顔から私の思考を察したのか、先生は大声で笑った。
「はっはっは、安心しろ、ハイデガーは哲学者であって宗教家ではない。もちろんそんな意味合いではないさ。まあ、たしかに『存在と時間』における良心論は唐突だし難解なこともあって、評判があまりよろしくない。だが、ハイデガー哲学の核心であることは間違いないのだから、なんとか食らいついていってほしい。うーむ、そうだな、これはハイデガー自身の表現でもあるのだが、良心というよりは『負い目 』と言ったほうがわかりやすいかもしれない」
「負い目……」
「良心と言われてピンとこない人も、『負い目』と言われれば少しはわかるのではないだろうか。だって、自分に『良心があるか』と問われても、なかなかはっきりと答えることはできないが、『負い目を感じているか』なら答えられるだろう?」
「そうですね。感じるか、感じないかという体感の話ですから。でも、良心と負い目は、それぞれ別のものではないのですか?」
「良心と負い目。たしかに言葉としては違う。だが実際のところ両者は同じものではないだろうか。たとえば、おまえが誰かを傷つけたとする。そのとき、おまえは負い目という感情を持つのではないかな?」
「そう……ですね。持つと思います……」
無意識に胸元を押さえながら、上ずった声で答えた。先生は私の反応に気づかなかったのか、かまわず先を続けた。
「なぜ負い目を感じるのか。それは自分が悪いことをしたという自覚があり、本当はもっと善い選択、善い生き方ができたかもしれないと思うからであろう。そうした態度は、つまるところ『良心がある』と言い換えて良いのではないだろうか」
理屈はわかる。たしかに良心がなければ負い目だって感じない。良心があるからこそ負い目を感じるのだろう。だとすれば、私が今感じている『これ』が負い目なのだとしたら―私にも良心がある、ということになるのだろうか?
いや、今はそれよりも聞くことがある。
● なぜ負い目があれば、死の先駆的覚悟ができるのか?
「しかし、先生、良心が負い目だったとして、どうしてそれが死の先駆的覚悟ができることにつながるのでしょうか?」
「当然の疑問だな。だが、その前にそもそも、なぜ人間は負い目を感じるのか? 負い目とはいったい何なのか? その仕組みや本質を明らかにしよう。それがわかれば、どうしてハイデガーが死の先駆的覚悟と負い目(良心)を結びつけているのかわかるはずだ。ではさっそく、人が負い目を感じる理由だが―答えを先に言うなら『人間が有限の存在である』からだ」
「有限の存在……。つまり、限りのある、限界のある存在だということでしょうか?」
「うむ、その通りだ」
「それはまあ、理解できます。人間は何でもできるわけではありませんし」
「もちろん、そういった『能力の限界』もあるし、他にも『時間の限界』―永遠に生きられず必ず死ぬというのもあるな」
私はうなずいて肯定を示した。
(本原稿は『あした死ぬ幸福の王子――ストーリーで学ぶ「ハイデガー哲学」』の第6章を一部抜粋・編集したものです)
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