福島第一原発事故から10年以上が経過しましたが、その影響は今もなお人々の生活に暗い影を落としています。この記事では、原発事故後の伊達市で何が起こったのか、そしてそこで暮らしていた一人の少女、わかなさんの体験を通して、事故の爪痕を改めて見つめ直します。
伊達市:原発事故とその後
福島市に隣接する伊達市は、原発から約60km離れています。しかし、山を越えて飛散した放射性物質の影響を受け、住民たちは不安な日々を過ごすことになりました。わかなさんは、中学校の卒業式を迎えたその日、故郷である伊達市を離れ、家族と共に山形県へ自主避難することを決意します。
全市民を対象とした個人線量計の配布
2011年7月、伊達市は全国に先駆けて、市内すべての小中学生と幼稚園児に個人線量計(ガラスバッジ)を配布しました。翌年には、対象を全市民に拡大。これは一見、住民の健康を守るための対策のように思えますが、後に思わぬ形で問題が浮上します。
伊達市で配布されたガラスバッジのイメージ
ガラスバッジデータを使った論文捏造疑惑
伊達市が収集した全市民のガラスバッジデータは、東京大学の早野龍五教授と福島県立医科大学の宮崎真助手(当時)によって、学術論文の作成に利用されました。この論文は、「被曝の心配はそれほどない」「除染もそれほど必要ではない」という趣旨の内容で、後に捏造疑惑が浮上し、国際学術雑誌への掲載が撤回される事態に発展します。市民の同意なしに、医学的データが論文作成に利用されたことは、大きな問題となりました。宮崎氏は、この論文で一度は博士号を取得しましたが、後に剥奪。しかし、共同執筆者の早野氏には、目立った処分は行われていません。
除染されないまま残された地域
伊達市は、全国で唯一、汚染の度合いで市内を3つのエリアに分けするABCエリア方式を採用しました。しかし、わかなさんの居住地を含む、市内8割を占めるCエリアは、国の除染基準に該当しているにもかかわらず、除染は行われませんでした。
わかなさんは自主避難したことで、伊達市に残った人々が経験したこれらの理不尽さを直接味わうことはありませんでした。しかし、避難先での高校生活は、彼女にとって「暗黒」の時間となります。
避難先での苦悩と「暗黒」の高校生活
故郷を離れ、新たな環境での生活を余儀なくされたわかなさん。避難先での高校3年間は、彼女にとって想像を絶するほど辛いものでした。慣れない土地での生活、原発事故による風評被害、そして故郷を離れたことへの喪失感。これらの重圧が、わかなさんを追い詰めていきます。
自殺という選択
最終的に、わかなさんは自ら命を絶つという選択をしてしまいます。避難生活の苦しさ、将来への不安、そして故郷を失った喪失感。様々な要因が複雑に絡み合い、彼女を追い詰めたと考えられます。
まとめ:未来への教訓
わかなさんの悲劇は、福島原発事故がもたらした影響の深刻さを改めて私たちに突きつけます。事故の影響は、放射能汚染だけでなく、人々の生活、心にも深い傷跡を残しました。わかなさんの体験を風化させることなく、未来への教訓として語り継いでいくことが大切です。