松下幸之助(1894〜1989)は和歌山生まれ。父親が米相場で失敗したため、小学校も卒業せずに奉公に出る。いくつかの職業を経たのち大阪電燈に勤めるが、改良ソケットを考案し独立、松下電気器具製作所を作る。戦後、公職を追放されるが、昭和22(1947)年に復帰してからは家電ブームに乗り、大量生産、大量販売で大松下グループを作り上げた。
松下が94歳で亡くなった1989年当時、ひとり娘の幸子さん(2021年に99歳で逝去)が明かしていた、家族の記憶とは。
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一番苦労したのは、終戦後だったと思います。すべて父の個人保証でお金をかりておりましたので、たいへんな借金を背負いこんでしまいました。会社も一時は2、3万人いたものが8000人ぐらいに縮んでしまいました。それをどう建て直そうかと苦心している時に財閥指定を受けて関連会社が分離され、また預金封鎖でお金も自由にならなくなってしまい、家の経済も苦しかったようです。大阪にいらっしゃるお友達、5、6人が見るに見かねてお金をかしてくださいまして、それでなんとか暮らしていたような状態でした。
家ではよくヤケ酒を
この頃、父はよくヤケ酒を飲んでおりました。ウィスキー、それもジョニー・ウォーカーの黒しか飲まないんですが、2日か3日に一瓶あけてたんではないでしょうか。その頃でも、いただき物などで父一人が飲むぐらいはあったんです。
家の中でお酒を飲むのは、父一人だけ。私がお酌をしたりすると、「亭主が酒を飲まないから、給仕が下手だ」なんてブツブツ言いながら飲んでおりました。明るいお酒ではありませんでしたね。
一生懸命働いて、なんでこんな目にあわなければならないのか、という気持だったのでしょう。
母が心配しまして、「洋酒は強くて身体によくないから」ということで日本酒に変えさせたんです。その後、事業が落ち着いて、打ち込めることが出てまいりましたので、それほどは飲まなくなりました。でも、お酒は亡くなる少し前まで、お猪口に2杯とか、ビールをコップ半分とか、飲んでおりました。