風刺作品が出せなくなりピンチに… 蔦重を救った「喜多川歌麿」が手がけた美人画の斬新さ 


【画像を見る】歌麿の名前を使い始めた、黄表紙『身貌大通神略縁起』

■蔦重の家に居候していた喜多川歌麿

 今は昔ほど行われることが少なくなったが、編集者が書き手に自社の原稿に集中してもらえるようにと、ホテルや旅館の一室に閉じ込めることを「カンヅメにする」と呼ぶ。それだけいろんな出版社から依頼が舞い込んでいるということでもあり、売れっ子作家の証ともいえよう。

 「絵草紙問屋蔦屋重三郎に寓居」

 この浮世絵師の名は、喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)。蔦重が立ち上げた耕書堂との仕事が多いため、いっそのこと一緒に住むことになったらしい。

 蔦重が重宝した歌麿は、はたしてどんな人物だったのか。

 歌麿は生年も出身地もよくわかっていないが、墓所がある専光寺の過去帳によると、没年月日は、文化3(1806)年9月20日。数えで54歳のときに亡くなったとされていることから、逆算して宝暦3(1753)年生まれではないか……と言われている。この説に従えば、寛延3(1750)年生まれである蔦重からみて、歌麿は約3歳年下ということになる。

■蔦重の黄表紙から「歌麿」と名乗る

 「歌麿」へと改名したのは約10年後のこと。蔦重が天明元(1781)年に製作した黄表紙『身貌大通神略縁起』(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵から、その名を使ったようだ。これが蔦重との最初の仕事だったことを考えると、蔦重から名前について何かアドバイスがあったのかもしれない。



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