NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍した人物や、蔦重が手がけた出版物にスポットライトがあたっている。美人画を得意とした喜多川歌麿もその一人だ。連載「江戸のプロデューサー蔦屋重三郎と町人文化の担い手たち」の第18回は、蔦重と歌麿の関係性や特徴的な作風について解説する。
【画像を見る】歌麿の名前を使い始めた、黄表紙『身貌大通神略縁起』
■蔦重の家に居候していた喜多川歌麿
今は昔ほど行われることが少なくなったが、編集者が書き手に自社の原稿に集中してもらえるようにと、ホテルや旅館の一室に閉じ込めることを「カンヅメにする」と呼ぶ。それだけいろんな出版社から依頼が舞い込んでいるということでもあり、売れっ子作家の証ともいえよう。
蔦屋重三郎もそんなふうに流行作家をカンヅメ状態にすることがあった。浮世絵師の伝記・経歴を考証した『浮世絵類考』には、ある浮世絵師について、次のように書かれている。
「絵草紙問屋蔦屋重三郎に寓居」
この浮世絵師の名は、喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ)。蔦重が立ち上げた耕書堂との仕事が多いため、いっそのこと一緒に住むことになったらしい。
蔦重が重宝した歌麿は、はたしてどんな人物だったのか。
歌麿は生年も出身地もよくわかっていないが、墓所がある専光寺の過去帳によると、没年月日は、文化3(1806)年9月20日。数えで54歳のときに亡くなったとされていることから、逆算して宝暦3(1753)年生まれではないか……と言われている。この説に従えば、寛延3(1750)年生まれである蔦重からみて、歌麿は約3歳年下ということになる。
歌麿の本名の姓は北川、幼名は市太郎で、狩野派・鳥山石燕のもとで学び、画力を磨いた。明和7(1770)年頃、つまり、前述した説に従えば、数えで18歳頃に「北川豊章」の名で絵師としての活動をスタートさせる。
■蔦重の黄表紙から「歌麿」と名乗る
「歌麿」へと改名したのは約10年後のこと。蔦重が天明元(1781)年に製作した黄表紙『身貌大通神略縁起』(みなりだいつうじんりゃくえんぎ)の挿絵から、その名を使ったようだ。これが蔦重との最初の仕事だったことを考えると、蔦重から名前について何かアドバイスがあったのかもしれない。