【歴史の転換点から】大獄に死す-松陰と左内の「奇跡」(5)わが英雄はワシントン、ナポレオンそして楠公


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幕末きっての名君、松平春嶽像=福井市宝永(関厚夫撮影)
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 「いまの武士は勇気なく義に薄く、謀略に欠けている。(中略)もし腰の両刀を奪い取ってしまったなら、その心のありよう、理解・洞察力などすべてにおいて町人や農民に優るすべはない。農民は平生、精を出して働き、町人は常に自分の仕事や世渡りに心を砕いているため、手柄功名はかえって町人や農民が立て、福島正則(※1)や片桐且元(※2)、井伊直政(※3)、本多忠勝(※4)といった者はいまや武士のなかからは現れまい。誠に嘆かわしい」

恐るべき15歳

 嘉永元(1848)年、数えで15歳(満14歳)の橋本左内が書き上げた『啓発録』の一文である。「稚心を去る」「振気」「立志」「勉学」「交友を択(えら)ぶ」の5章からなる同書は左内が残した最も有名な著作となった。ここで彼が英雄として挙げた顔ぶれも興味深いが、やはり特筆すべきは左内が「士」の衰退と「農工商」の興隆という時代の潮流を看破していたことだろう。

 草莽ということばがある。「草むら」から転じて「民間」「在野」を意味するようになり、わが国では18世紀後半以降、幕藩体制下の官僚支配の外にありながら「危機に際してそのたて直しに励む」(日本大百科全書)有志というニュアンスが付加された。

 左内もかつては草莽にあった。嘉永2年、蘭学の名門・適塾で学ぶため、故郷の福井を後にして大坂に向かうさい、左内が知人から贈られた漢詩には「豪傑は草莽中に伏在する」とある。彼は衆目の一致する「草莽中の豪傑候補」だった。

 しかしながら、左内研究の第一人者の山口宗之氏は著書『橋本左内』(人物叢書)で、「武士階層制の下級の出自でありながら彼には在野精神というべきものが全くなく、(中略)幕政の真の批判者たることが不可能」であったと断じている。その原因は、後に左内が賢侯の誉れ高い第16代越前福井藩主、松平春嶽(慶永)に側近と見込まれたことにある。

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