巨大な葬儀が行われた稲川会総裁・清田次郎とは何者だったのか「トラブルがあると子分を引き連れて殴り込み」「話すときは相手に抱きつくように…」


【貴重写真】稲川会総裁・清田次郎の葬儀に出席するために新横浜駅に新幹線で到着した6代目山口組の司忍組長。他にも暴力団界の大物が勢ぞろい

 暴力団「稲川会」の総裁、清田次郎が4月21日に84歳で死去した。5月15日には横浜市内にある稲川会館で「会葬」が行われた。かねてより喉頭がんを患っており、昨年末から重篤な状態が続いていた。

 稲川会は6代目山口組、住吉会に次ぐ国内3番目の勢力で、6代目山口組組長の司忍や相談役の高山清司らとの友好関係は暴力団業界ではよく知られている。

 それだけの巨大組織を率いた清田とはどのような人物だったのか。警察当局で稲川会などの暴力団犯罪の捜査を長年にわたって専門的に続けてきた、元「マル暴刑事」が清田の人物像について重い口を開いた。

「清田について一言でいうと『昔気質の義理堅いヤクザ』。博徒という言葉が似合う男だ。この年齢だと、バブル経済で好景気になったころ、ヤクザといえば“地上げ”という不動産事業にのめり込んで億単位のカネを稼ぐ、いわゆる『経済ヤクザ』が目立つ存在だった。だが清田はそういったことがなかった。どちらかと言うとカネを稼ぐのがうまいタイプではなかった」

「シノギはまずは博打。昔は賭場があちこちで立っていた。あとは競馬のノミ行為など。数あるなかで最も大きかったのは飲食店からのみかじめ料。用心棒代だ。昔からのヤクザの伝統的なシノギでやっていた」

「トラブルがあると子分を大挙して引き連れて、相手の陣営に…」

「山川一家は稲川会の中でもケンカではイケイケだった。なかでも若いころの清田は、トラブルがあると子分を大挙して引き連れて、相手の陣営に押しかけて徹底的に痛めつけたようだ。縄張内で関西弁を話す者がいたら付け回して、追い出すようなこともしていた。川崎の街のシマは自分たちで守るという意識が高かった」



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