NHK大河ドラマ「べらぼう」では、江戸のメディア王・蔦屋重三郎(つたや・じゅうざぶろう)を中心にして江戸時代中期に活躍したクリエーターや10代将軍・徳川家治の周辺人物にスポットライトがあたっている。10代将軍の徳川家治から11代将軍の徳川家斉に将軍の座が引き継がれるにあたって台頭したのが、島津藩の8代藩主・島津重豪(しまづ・しげひで)だ。そのパワフルさで中央の政治にも影響力を持った、重豪の剛腕ぶりを解説する。
■11歳で薩摩藩の8代藩主となった改革派
第11代将軍に徳川家斉が就任すると、将軍の岳父として権勢を振るったのが、「高輪下馬(たかなわげば)将軍」とも呼ばれた、薩摩藩の島津重豪である。薩摩藩で数々の大胆な改革を行ったこの人物は、いかなるリーダーだったのだろうか。
島津重豪は延享2(1745)年11月7日、加治木島津家の当主重年の嫡男として、鹿児島城下の加治木島津家の屋敷で生まれた。母は重豪が生まれた日に死去している。
寛延2(1749)年に薩摩藩の6代藩主で伯父の宗信が死去。父の重年が薩摩藩の7代藩主となったため、5歳(数え年、以下同)の重豪が、加治木島津家を継ぐことになった。
10歳のときに、幕府から木曾川治水工事の手伝いを命じられた父とともに江戸へ。翌年に父が没すると、祖父の継豊が後見するかたちで、重豪が11歳で薩摩藩の8代藩主に就任している。
儒学者・室鳩巣(むろそうきゅう)のもとで学んだ朱子学者たちによって、重豪は儒学的な教養を身につけていく。
また、散楽(猿楽、能楽のこと)を好み、早くから修業を積んだ。鷹狩りも親しんだため、銃も乗馬も得意だったという。母、伯父、父と立て続けに亡くし、重豪自身も丈夫ではなかったことから、健康のために野外活動に打ち込んだともいわれている。
■蘭学に傾倒してオランダ語を習得した
宝暦9(1759)年、重豪は15歳で一橋家の初代当主・徳川宗尹(とくがわ むねただ)の娘・保姫と縁組を行う。宗尹は8代将軍・吉宗の4男にあたる。