朝鮮に投降した謎の戦国武将 子孫が明かした思い


【写真】韓国にある沙也可の墓

 韓国南東部・大邱(テグ)市中心部から南へ約20キロの達城(タルソン)郡・友鹿洞(ウロクドン)。かつて鹿が多くいたことからその名がついた。沙也可はここで、渡韓後に結婚した妻や子と晩年を過ごした。

 「友鹿洞の住民の6割ほどは沙也可将軍の子孫です」。沙也可の関連資料を展示する「達城韓日友好館」で金相保(キム・サンホ)さん(76)が出迎えてくれた。沙也可から数えて12代目の子孫という。スーツに赤いネクタイを締め、黒い帽子もよく似合っている。友好館は沙也可の物語を日韓交流に生かそうと、一族が政府の補助金も得て2012年に開館した。

 「沙也可将軍については、ここに詳しく書かれています」。相保さんが古文書「慕夏堂(モハダン)文集」を見せてくれた。文集によると、沙也可は加藤清正軍の先鋒(せんぽう)として22歳だった1592年4月、朝鮮半島に渡った。だが、わずか1週間後、3000人の兵と朝鮮側に帰順した。理由はこう記されている。「出世のためでもなく名誉のためでもない。子孫を礼儀の国に残し、代々、礼儀の人とするためである」

 兵を3000人も率いた高位の武将がそう簡単に寝返るだろうか。不思議な話だが、朝鮮側に投降した「降倭」と呼ばれる兵は1万人以上いたとの説もある。「善良でおとなしい朝鮮の民を見て、大義のない戦争だと感じたのでしょう」。相保さんは先祖の思いを推し量る。

 沙也可は投降後、朝鮮側で秀吉軍と戦った。秀吉軍の撤退後も朝鮮王朝に仕え、北方の異民族の平定に尽力した。その武功から王に「金」の姓を与えられ、以後は「金忠善(キム・チュンソン)」と名乗った。中村栄孝・名古屋大名誉教授(故人)の研究によると、慕夏堂文集は、孫が書き残した6項目の経歴書と、沙也可の上官だった軍人の子孫宅に残された文書などから、6代目が18世紀末に書き上げた。

 それにしても沙也可とは不思議な名前だ。日本語の音を朝鮮式の発音で漢字で表現したため、元の名とは異なる表記になったのだろうか。今に至るまで日本側の史料では見つかっていない。

 このため、日本による韓国併合(1910年)の後、日本では学者らが「沙也可は実在しなかった」と批判した。軍国主義の「皇国・日本」では「裏切り者」の存在は許されなかったのかもしれない。

 だがその後、沙也可の実在は裏付けられた。当時、朝鮮総督府で史料編さんを担当していた中村教授は、朝鮮王朝の正史「李朝実録」に、「降倭の沙也可」らが1597年に戦功を上げたとの記述があるのを確認。朝鮮王の命令などを記した「承政院日記」でも、異民族から1627年に侵攻を受けた際に「降倭領将の金忠善」が活躍したと記されていた。

 友好館に展示された歴史資料を見学していて、熊本県知事からの手紙を見つけた。2階には和歌山県の観光をPRするコーナーもある。「沙也可の出身地は和歌山、熊本など諸説あり、私たち一族は、各自治体と交流しています」。案内してくれた沙也可の子孫、金潤熙(ユンヒ)さん(85)がそう教えてくれた。特に交流が深い和歌山市には、沙也可の顕彰碑が建てられている。

 和歌山で戦国時代に活躍した鉄砲傭兵(ようへい)集団「雑賀(さいか)衆」の武将が沙也可だとの説は、「さいか」の発音が「さやか」と似ていることが根拠の一つだ。沙也可が火縄銃を朝鮮半島に伝えたと記した慕夏堂文集の内容とも符合する。和歌山出身の作家、神坂次郎はこの説に基づき、沙也可をモデルに小説を書いた。

 また友鹿洞を取材した作家の司馬遼太郎は著書で、沙也可は熊本県の武将・岡本越後守(えちごのかみ)ではないかと推測した。加藤清正軍に加わったが朝鮮側に投降したとの史料が残るからだ。司馬は朝鮮と交流が深かった長崎県対馬の武将の可能性も挙げている。ほかにも、沙也可と似た名の「可也(かや)山」がある福岡県糸島市などが出身地の候補だ。

 私の古里は和歌山なので雑賀衆説を推したいところだ。ただ、どの説にも決め手がなく、その出自は謎のままだ。

 「降倭の子孫は多いが、日本人の子孫だと公に言っているのは、私たちくらいでしょう」。豪快に笑う相保さんに、少し聞きづらい質問を投げかけた。反日感情が根強い韓国で日本人の子孫だと名乗れば、嫌な思いをすることも多かったのではないか。相保さんは屈託ない様子で語った。「以前はけんかをした時とか、(日本人に対する侮蔑的な呼び方の)『チョッパリ』などと言われたことがありました。でも、そうした点は克服しました。国のために尽くした沙也可将軍を誇りに思っているからです」

 友好館が開館してからこれまで、修学旅行生を含め数多くの日本人が訪れた。今年は日韓国交正常化から60年の節目だが、特別な行事は予定していない。相保さんは言う。「沙也可将軍は平和な韓日関係を望んでいたと思う。どんな時代でも、これまで通りの民間交流を続けることが大切なのです」

 友鹿洞を一望に見渡せる日当たりのよい丘に、沙也可の墓はひっそりとたたずむ。祖国で批判されるのを覚悟のうえで朝鮮半島の土に骨をうずめた心の奥底は、今となっては知るよしもない。いずれにしても、子孫たちが日韓友好に尽力していることを誰よりも喜んでいるのは、泉下の沙也可ではないだろうか――。陽光に照らされた墓石を見つめていると、そんな思いが頭をよぎった。【ソウル支局長・福岡静哉】(政治プレミア)



Source link