戦国時代、もっとも世渡りが上手かった武将は誰か。歴史評論家の香原斗志さんは「真田昌幸だろう。家康に2度も攻め込まれながらも、明治時代まで家を残したのは彼の智謀によるところが大きい」という――。
■戦国屈指の世渡り上手だった武将
戦国武将のなかでもとりわけ才知に長け、豊臣秀吉や徳川家康をはじめ格上の武将たちと渡り合い、翻弄し、幾多の苦難を潜り抜けた。こうした世渡りが飛びぬけて上手かったため、江戸時代をとおして家を存続させることに成功した。そんな人物が真田昌幸である。
だが、もともとは武将でさえなかった。武田家に仕える真田幸綱の三男なので、家督を継ぐ可能性は低く、早くから武藤という家に養子に出され、足軽30人を従える足軽大将になっていた。だが、2人の兄、信綱と昌輝が天正3年(1575)の長篠合戦で戦死したため、真田家に戻って家督を継承することになった。
真田家は信濃国(長野県)小県郡真田(上田市)が拠点だったが、昌幸は小田原の北条氏の所領だった上野国(群馬県)東部の沼田領(沼田市)に侵攻。ついには沼田領の拠点、沼田城を手に入れている。
天正10年(1582)3月、織田信長と徳川家康の連合軍に攻められて武田氏が滅亡すると、すぐに信長に臣従したが、この判断および変わり身の早さこそ、真田昌幸の生涯において真骨頂だった。
信長が甲斐国(山梨県)に配置した滝川一益の与力になり、沼田城は差し出した昌幸だったが、3カ月後に織田信長が本能寺に斃れると、旧武田領で徳川家康、北条氏政、上杉景勝による領土の争奪戦がはじまった。ここからの昌幸は、まさに変幻自在に立ち回る。
■上杉→北条→徳川という寝返り
滝川一益が北条氏政の嫡男、氏直に敗れた間隙を縫って沼田城を奪還し、上杉が上野国に侵攻してくると上杉に臣従した。ところが、すぐに北条氏直に降伏し、わずか2カ月余りのちには徳川家康と連絡をとり、北条を裏切って徳川に寝返っている。どうやら、寝返りの基準は、沼田城を守りたいという点にあったようだが、ともかく、相手を翻弄する変わり身は鮮やかである。
次の逸話からも、昌幸の沼田へのこだわりがうかがい知れる。天正10年(1582)10月末、家康は北条と和睦を締結し、(1)家康の次女の督姫が北条氏直に嫁ぐこと、(2)北条氏の勢力下にあった甲斐国都留郡、信濃国佐久郡と、徳川臣下である真田氏の領土である上野国沼田領および吾妻領が交換されること、が決められた。
つまり、甲斐と信濃は徳川、上野は北条、というようにすっきり分けようとしたのだ。ところが、昌幸は、沼田領も吾妻領も自分が切り取ったものだと強く主張し、家康の求めを拒んだ。その結果、沼田城は北条氏からたびたび攻撃されることになったが、昌幸は耐え抜いている。
その後、翌天正11年(1583)、昌幸は家康の命で、越後国(新潟県)の上杉氏に対する防衛線として、信濃川に面した断崖上に上田城(長野県上田市)を築城した。むろん、家康は築城に際して支援したのだが、これが家康にとっての仇になる。
■2000の兵力で7000の敵に勝利
天正12年(1584)3月、小牧・長久手の戦いが起き、家康が秀吉と対決して沼田方面へ注意を払う余裕がなくなると、昌幸は沼田と吾妻をみずからの所領としてあらためて確保した。これに北条氏が激怒し、和睦の条件を守るように家康に迫ったので、秀吉と和睦した家康は天正13年(1585)4月、甲府に軍を進め、昌幸に沼田を引き渡すように求めた。
家康は沼田の代わりに、信濃国の伊那(伊那市)をあたえると提案したのだが、昌幸はあらためて拒否。家康から離反し、次男の信繁(幸村)を人質に出して上杉景勝に臣従してしまった。
さすがに堪忍袋の緒が切れた家康は、昌幸を攻めて真田領を制圧することを決意。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000の軍勢で上田城を攻めさせ、別動隊を沼田城にも侵攻させた。ところが、昌幸はわずか2000の兵力で翻弄し、徳川軍に1300もの死傷者を出させるほど大勝している(第一次上田合戦)。
結局、昌幸はこの勝利をもって、信濃国の独立した大名として認められるようになったのだから、変幻自在に変わり身を繰り返した者勝ち、ということになる。