東大文学部を卒業しながら年収230万円。一般的な東大卒のイメージとは異なる道を歩む人物の人生を追ったノンフィクション『東大なんか入らなきゃよかった』から、その一端を紹介する。特に、彼の学生時代に深く関わった、今はなき東京大学の学生自治寮、駒場寮での日々、そして大学当局との駒場寮闘争に焦点を当てる。
かつて存在した東大のシンボル、駒場寮
齋藤洋介さん(インタビュー当時44歳)が「九龍城砦みたいで楽しい場所だったよ」と語る駒場寮は、かつて東大の駒場キャンパス東側に存在した学生自治寮である。東京大学大講堂(通称、安田講堂)の基本設計者である内田祥三(後に東京帝国大学総長)が設計し、1935年に建設された鉄筋コンクリート造の、由緒正しい東大の寮だった。しかし、現在は既に取り壊されており、その姿を見ることはできない。
東大駒場キャンパス東側に位置していた、今はなき学生自治寮「駒場寮」の外観写真。老朽化が進んだ建物の様子がうかがえる。
寮存続を巡る大学との激しい闘争「駒場寮闘争」
1991年10月に教養学部の教授会で廃寮が議題に上って以降、駒場寮の明け渡しと取り壊しを巡り、大学と学生は何年にもわたり激しく争った。この「駒場寮闘争」と呼ばれた争いは、2001年8月、裁判所の決定に基づいて約600人の教職員と警備員が動員され、機動隊も待機する中、寮明け渡しの強制執行がなされる形で終結を迎えた。東大文学部卒の齋藤さんも、この駒場寮闘争に参加していた一人だった。
年5000円の家賃に魅かれて…駒場寮への入寮
1995年に東京大学の文科三類に入学した齋藤さんは、実家が自給自足で生活するような貧乏農家であり、仕送りがなかったため、多くはない奨学金で東京生活を送る必要があった。当初は2人部屋で月の家賃が2万円という県人寮に住んでおり、それはそれでありがたい環境だったという。しかし、すぐに駒場寮の存在を知り、その月にたったの5000円という家賃に魅かれて引っ越しを決意した。大学内で見かけたという入寮のチラシにあった「日本一きたない学生寮」という煽り文句も、彼には魅力的に映った。
「廃墟も同然」でも楽しかった寮生活の実態
齋藤さんが入寮したころの駒場寮は、建物の老朽化が著しく、客観的に見れば「廃墟も同然」の状態だった。しかし、そんな駒場寮での生活を、彼は「楽しかったなぁ」と懐かしそうに振り返る。ツタに覆われたボロボロの建物の内部には、様々なサークルの部室がひしめき合っていたほか、コーヒーが1杯50円で飲める安価なカフェも存在した。また、大きな劇場や、壁一面がピンクに塗られた個性的な会議室、全自動卓が置かれた本格的な雀荘部屋といったユニークな設備もあった。もちろん、共同利用の台所やシャワー室など、寮生活に必要な最低限の施設も備わっていた。こうした物理的な老朽化とは裏腹に、駒場寮は多様な学生が集まり、自由な活動や交流が生まれる独特の活気に満ちた場所だったのだ。
結論
齋藤さんの駒場寮での経験は、単なる住居の問題に留まらず、学生自治が息づく独特な環境、そして大学という巨大組織との衝突という、彼のその後の人生観や選択に深く関わる出来事だった。年収230万円という道を選んだ彼のキャリアの背景には、こうした駒場寮闘争を含む、東大在学中の学生自治寮での非凡な経験が色濃く影響しているのかもしれない。
参照
『東大なんか入らなきゃよかった』(文庫版) 著者: 池田渓