田原俊彦氏、ラジオでのセクハラ問題でNHK『うたコン』出演キャンセル。背景に潜む日本社会の課題とは?

6月15日に放送された『爆笑問題の日曜サンデー』(TBSラジオ)でのセクハラ発言が、歌手の田原俊彦氏に批判を招いています。番組中、女性アナウンサーに対し「真ん中の足はもっと上がる」などの下ネタ発言を繰り返し、さらにアナウンサーの手に触れるなどの行為があったとされています。この件を受け、TBSラジオは番組内で問題行為があったことを認め、田原氏のマネジメント担当に対して再発防止を申し入れたと発表しました。田原氏自身も後に「調子に乗りすぎた」と謝罪し、共にパーソナリティを務めた爆笑問題側も「(田原氏をそのような下ネタに)誘導してしまった部分も大きかった」と釈明するなど、一見して騒動は収束に向かうかに見えました。

しかし、事態はこれで終わらず、田原氏が6月24日に出演を予定していたNHKの音楽番組『うたコン』が、突如として田原氏の出演キャンセルを発表しました。この異例の対応は各方面に波紋を広げています。インターネット上では、「アイドル時代の感覚がそのままなのでは?」「時代に合わせて感覚をアップデートする必要がある」といった、田原氏個人の時代錯誤な言動に対する批判的なコメントが多く見受けられます。確かに、現代において、かつて昭和期には許容されがちだったようなストレートな下ネタを公の場で発する感覚は、多くの人々にとって違和感を伴うものです。

田原俊彦氏の最新アルバム「LIFE IS A CARNIVAL」通常盤ジャケット画像田原俊彦氏の最新アルバム「LIFE IS A CARNIVAL」通常盤ジャケット画像

なぜセクハラが「ユーモア」と誤認されてしまうのか?

今回のラジオ番組での出来事において見過ごせない点は、爆笑問題側も田原氏の発言を容認し、時には煽るようなそぶりも見せていたことです。これは、彼らの間ではそうしたやり取りがエンターテイメントとして成立するという共通認識が存在していた可能性を示唆しています。田原氏や爆笑問題にとって、問題とされた「真ん中の足」のような発言は、単なる悪ノリや暴走ではなく、むしろ彼らのトーク文化において定着した一種の下ネタであり、トーク術におけるポジティブなユーモアとして認識されていた節があります。この件の根源には、彼らが長年育まれてきた、そして当然としてきた「文化」こそが、現代における考え違いの温床となっているという側面があると考えられます。したがって、これは単に個人の時代感覚をアップデートすれば修正されるという単純な問題ではないと言えるでしょう。

個人の問題に留まらない、「爪痕を残す」社会構造

では、その問題の根源にある「文化」とは一体どのようなものなのでしょうか。それは端的に言えば、女性が不快に思う可能性のある言動をあえて行うことで、一種の快感や笑いを得ようとする構造です。男性の幼さや未熟さを意図的に前面に出すことによって、他者、特に女性からの批判や指摘を封じ込めてしまう。このような幼さを装う態度は、1980年代以降の日本のバラエティやお笑い番組において、広く受け入れられ、発展の基盤となってきたと言っても過言ではありません。

こうした「ガキっぽさ」や幼稚さがまかり通ってしまった結果、トークと称されながらも、実際には独りよがりな言葉や一方的な発言が横行する状況が生み出されました。バラエティ番組でよく使われる「爪痕を残す」という言葉に象徴されるように、コミュニケーションは相互的な対話ではなく、場を盛り上げるための単発的なギャグやキャッチフレーズを文脈に関係なく羅列するようなスタイルが主流になってしまったのです。そして、この「爪痕を残す文化」は、番組出演者だけでなく、長年にわたりそうした番組を視聴してきた多くの人々にも無意識のうちに刷り込まれています。この影響は、家庭や学校、職場といった日常生活でのコミュニケーションにも伝播し、それが回り回って再びテレビ番組などのメディア制作に反映されていくという循環が生まれています。

したがって、今回の田原俊彦氏の一連の発言や行動は、決して彼個人の資質や問題行動だけに還元されるものではありません。それはむしろ、日本社会全体に深く染み付いた、「爪痕を残す」ことを重視し、時にハラスメントをもユーモアとして容認してしまうような文化、そしてそれによって成り立っている社会構造が表面化した事象として認識されるべき問題なのです。

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