「ダサいたま」返上へ:1980年代、埼玉・大宮/浦和を「変えた」開発の真相

1980年代、埼玉県はしばしば「ダサいたま」と揶揄され、受難の時代を過ごしました。この言葉が広く定着するきっかけの一つとなったのが、当時人気を博し始めたタモリ氏が深夜放送「オールナイトニッポン」の漫談で披露した埼玉ネタでした。また、1982年に少女漫画誌で連載が始まり、2019年に大ヒット映画となった魔夜峰央氏のマンガ「翔んで埼玉」も、「埼玉=ダサいたま」のイメージを全国に広める一因となりました。

「ダサいたま」返上へ:1980年代、埼玉・大宮/浦和を「変えた」開発の真相

1987年の埼玉県浦和市中心街。1980年代の社会・開発状況を示す景観。

東京に隣接しているにもかかわらず、埼玉県民が出身を聞かれた際に「東京のほう」と答えるといった話がまことしやかに語られたのも、まさにこの時代です。しかし、そうしたイメージとは裏腹に、1980年代の埼玉県、特に大宮や浦和といった主要都市では、その後の発展の礎となる大規模な開発が着実に進められていました。

1980年代に加速した大宮駅周辺の大開発

「ダサいたま」という言葉が一人歩きする中で、埼玉県の玄関口である大宮駅周辺では、特に西口エリアの開発が飛躍的に進みました。1987年には大型商業施設であるそごう大宮店がオープンし、翌1988年には当時埼玉県内で最も高い31階建ての複合施設、大宮ソニックシティが竣工。オフィス、ホテル、商業施設、イベントホールなどを備えたソニックシティは、駅西口のランドマークとなり、都市としての体裁を大きく変えました。

この一連の開発を牽引する起爆剤となったのが、1982年の東北・上越新幹線大宮駅の開業です。新幹線の停車駅となったことで、大宮は全国からのアクセス拠点としての地位を獲得しました。

新幹線延伸と埼京線誕生の知られざる苦難

しかし、新幹線建設は順風満帆ではありませんでした。特に、大宮-上野間の線路建設は沿線住民の激しい反対運動に直面し、当初計画は大幅な見直しを余儀なくされました。1982年にまず大宮から盛岡方面への開業が先行しましたが、この時点では都心へ向かう乗客は、大宮で在来線の「新幹線リレー号」に乗り換える必要がありました。幾多の困難を経て、ようやく上野-大宮間が開業し、新幹線が東京のターミナル駅まで直通できるようになったのは1985年のことです。

当時の国鉄(現JR東日本)の幹部が後に語ったところによると、この区間は地権者の強い反対により新幹線線路の建設が極めて困難なプロジェクトであり、その妥協案として、本来新幹線用として予定されていた用地の一部を利用して、通勤路線である埼京線が開通したという経緯があったそうです。

こうした苦難の末に開通した東北・上越新幹線、そして埼京線は、埼玉県南部の都市構造を大きく変えていきました。新幹線停車駅として利便性を増した大宮の存在感が高まる一方、東京都心と大宮、与野、浦和、戸田などをダイレクトに結んだ埼京線は、沿線各地の宅地開発や商業発展を促し、県全体のイメージを変えていく礎を築いたと言えるでしょう。

1980年代は「ダサいたま」というレッテルが貼られた時代でありながら、その陰で、大宮や浦和といった主要都市では、将来の発展を見据えた大規模なインフラ整備と都市開発が進められていました。新幹線や埼京線の開業は、単なる交通網の拡充に留まらず、埼玉県が「東京のベッドタウン」から脱却し、独自の都市機能を持つ地域へと変貌を遂げる重要な転換点となったのです。


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