滋賀県出身の作家、佐川恭一氏が綴る『学歴狂の詩』は、地方における学歴競争とその中で育まれた独特の価値観を生々しく描いています。特に、著者が自身の幼少期から経験した「神童」としての期待とプレッシャー、そしてその後の現実との対峙は、日本の地方社会が抱える学歴への執着という側面を浮き彫りにします。この記事では、同氏の体験談を基に、小さな町での学歴を巡る人間模様と、新たな才能の出現がもたらす波紋について掘り下げます。滋賀の田舎町で育ち、学歴に並々ならぬ情熱を注いできた佐川氏の視点を通して、受験という競争社会の一断面を見つめます。
佐川恭一氏の著書『学歴狂の詩』の表紙。地方の学歴競争と「神童」の世代交代を描く。
佐川氏の「神童」時代と地方の学歴事情
佐川氏が本書冒頭で振り返るのは、自身の出身地である滋賀の片田舎での少年時代です。町に中学校は一つ、進学塾もほぼ一択という環境下で、彼はペーパーテストで常に敵なしの状態でした。「町一番」の秀才として、ガリ勉でありながらもヤンキーからも一目置かれる存在だったと述懐します。中学時代、彼は自分がこのままエリートコースを駆け上がり、将来的には町役場前に自身の銅像が建つと本気で信じていたほど、絶対的な自信を持っていたと言います。
小さな町ならではの人間関係と情報の伝播は、佐川氏が高校に進学した後も続きました。彼の出身中学や塾の進学実績、後輩たちの学力レベルは、謎のネットワークを通じて常に彼の耳に入ってきました。毎年、地域のトップ校とされる某R高の特進コースへの合格者は出ているものの、佐川氏のように東大寺学園やラ・サールといった県外の難関校を撃破するような「神童」は、しばらく現れていないという状況でした。中学時代の恩師たちの間でも、「神童佐川」のその後の進路、特に大学受験の結果は大きな関心事だったようです。
受験の壁と現実、そして家族
その中学時代の先生たちの関心は、佐川氏の五歳下の妹を通じて彼のもとにも届きました。妹が同じ公立中学校に通っていたため、彼女は兄の受験に関する質問を頻繁に受けることになります。佐川氏が現役で大学受験に挑んだ中学一年生の時には、「落ちました」と報告する日々。しかし、彼が浪人して再び受験した中学二年生の時には、「受かりました」と伝えることができたといいます。佐川氏にとっては安堵の報告でしたが、妹にとってはどちらにせよ、兄の受験話は「バリバリだるかった」と振り返っています。
興味深いのは、この妹さんが、兄の極端ともいえる受験狂ぶりを反面教師とした点です。彼女は勉強だけに全てを捧げるのではなく、部活動などにも積極的に励み、バランスの取れた学生生活を送ることを心がけたそうです。その結果、生まれつきの資質もあるのでしょうが、妹さんは佐川氏よりもはるかに「まっとうな人間」に成長したと、著者は自嘲気味に記しています。このエピソードは、過度な学歴偏重が生む歪みと、そこから距離を置くことの重要性を示唆しているとも言えるでしょう。
「佐川以来」の出現:新たな才能とその影響
佐川氏は京大相手に浪人まで経験し、高校で濱慎平氏という強敵に会ったことで自身の頭脳の限界を思い知ったと言います。かつての「町に銅像が建つ」といった馬鹿げた発想は消え失せていましたが、それでも心の奥底には、未だに自分が「町のキング」であるという漠然とした思いがあったと認めています。
しかし、そんな佐川氏の王座を脅かす存在が、奇しくも彼の妹と同世代に現れました。その名は国崎亮氏。彼もまた、中学では敵なしの学力で、佐川氏と同じ進学塾に通い、第一志望校も佐川氏がかつて目指した某R高でした。こうした情報は、地方の小さな町では驚くほど筒抜けであり、瞬く間に「佐川以来の神童」という評判が立つことになります。
この国崎氏の登場は、佐川氏にとって、かつての自分を投影する存在であると同時に、自分がもはや過去の存在になりつつあるという現実を突きつける出来事でもありました。地方における学歴という名の「王座」は、常に新たな才能によって挑戦を受け、世代交代の波にさらされるのです。
佐川恭一氏の個人的な体験は、日本の地方社会において学歴がいかに根強く、個人のアイデンティティや地域内での評価に影響を与えるかを示しています。「神童」として祭り上げられ、プレッシャーの中で受験競争を戦い、一度は挫折を経験しつつも、その評判が地域に残り続けるという佐川氏の歩み。そして、彼と同じ軌跡をたどるかのような新たな「神童」の出現は、地方における学歴を巡る期待と競争が、形を変えながらも繰り返されている現実を浮き彫りにします。これは単なる個人の物語に留まらず、日本社会の教育システムと地方コミュニティの特性が intertwined した社会現象の一断面と言えるでしょう。
[参考資料]
佐川恭一『学歴狂の詩』(集英社)
Yahoo!ニュース (集英社オンラインより) – https://news.yahoo.co.jp/articles/c4a7c8d64d3ff5d22682ab26a50f184621795df4