日本の焼き餃子はいかにして生まれ、戦後に全国へ広まったのか

日本の食卓でおなじみの焼き餃子。その歴史は意外にも比較的新しく、第二次世界大戦後の混乱期にルーツがあると言われています。特に、満州(現在の中国東北部)からの引揚者たちが、日本の焼き餃子の普及に決定的な役割を果たしました。慶応義塾大学の岩間一弘教授は、その著書『中華料理と日本人』の中で、日本の焼き餃子がどのようにして生まれ、全国に広まっていったのかを詳細に論じています。この記事では、その起源と戦後日本社会における普及の過程を探ります。

戦後の混乱と引揚者の帰還

第二次世界大戦後、日本本土には海外から多くの人々が引き揚げてきました。厚生省援護局の記録によれば、1945年9月から翌46年末までに約510万人、1976年までには合計約629万人が帰国しました。このうち、かつて日本帝国の支配下にあった植民地や占領地に住んでいた日本人は350万人近くにのぼり、特に満州からの引揚者は120万人を超えていました。

これらの引揚者の中には、満州で日常的に食べられていた「餃子」の味を懐かしむ人々が多くいました。彼らが持ち帰った満州での食文化が、戦後の日本に根付くきっかけの一つとなったのです。

「引揚者料理」としての餃子ブームの萌芽

引揚者たちが日本へ持ち帰った餃子は、当初「引揚者料理」と呼ばれていました。引揚者の石原秋朗は、1946年に帰国した後、1947年頃から引揚者たちが東京の渋谷や神田で小さな飲食店を開き、そこで餃子を提供し始めたことを記録しています。これらの店は、満州の味を忘れられない一部の「中国郷愁患者」(中国での生活を懐かしむ人々)の間で評判となりました。

さらに、占領期の1948年以降、アメリカから日本の復興支援として大量の余剰小麦が輸入されました。この安価で豊富な小麦が、餃子の皮を作る材料として広く利用されるようになり、餃子の普及を後押ししました。

熱々の焼き餃子が並べられた皿。戦後の日本で広まった大衆的な中華料理の象徴。熱々の焼き餃子が並べられた皿。戦後の日本で広まった大衆的な中華料理の象徴。

渋谷に生まれた伝説の店

東京の渋谷は、戦後間もない頃、引揚者たちが集まり、新しい生活を始める場の一つでした。喜劇役者の古川緑波の日記によれば、渋谷にはバラック建ての小さな飲食店が立ち並び、その中でいち早く餃子を提供して評判になったのが「有楽」(あるいは「友楽」とされる)という店でした。その後、「珉珉」のような店が続々と現れました。これらの初期の餃子店は、「安くて油っこいもの」を提供することで、多くの人々に受け入れられ、流行しました。

特に、「珉珉」の創業者である高橋通博は、中国の青島で生まれ、大連で育ち、北京で終戦を迎えました。彼は1948年、東京都が引揚者の自立を支援するために渋谷の百軒店という商業地を貸し出した際に、バラック建ての餃子店「友楽」を開業します。その後、渋谷の「恋文横丁」に「珉珉」(正式には珉珉羊肉館、1952年~2008年)を開店し、日本の焼き餃子の歴史において重要な役割を果たしました。

満州への郷愁と餃子

作家の遠藤周作は、1926年から1933年まで大連で幼少期を過ごしました。彼は1960年に渋谷の珉珉を訪れた際、「その店の汚さにかかわらず、味は実にうまい」と評価し、子供の頃に満州人の友人の家で餃子を食べた思い出を語っています。彼が見た当時の珉珉の客には、中国に兵隊や軍属として滞在した経験を持つ人々が多く、彼らは満州時代の生活を懐かしみながら餃子を食べていたといいます。

このように、戦後の日本における焼き餃子の普及は、単なる新しい料理の紹介にとどまらず、満州からの引揚者たちが故郷の味を求め、その経験を共有する場として機能した側面も持っていました。安価で手軽に食べられる餃子は、戦後の厳しい時代の中で人々の胃袋を満たすだけでなく、故郷や過去への郷愁を満たす存在でもあったのです。

結論

日本の焼き餃子は、満州からの引揚者たちが戦後の混乱期に持ち込んだ食文化が、アメリカからの小麦供給という経済的要因と結びつき、東京・渋谷のような特定の場所から徐々に広まっていったことがその始まりと考えられます。初期の餃子店は引揚者の自立支援や、満州での生活を懐かしむ人々の集まる場となり、安価で美味しい「引揚者料理」として人気を博しました。石原秋朗、古川緑波、遠藤周作といった同時代の人々の証言からも、この歴史的な流れが裏付けられています。日本の焼き餃子は、単なる一品料理ではなく、戦後の社会変動と人々の移動、そして郷愁が生み出した文化的な産物と言えるでしょう。

参考文献

岩間一弘『中華料理と日本人』(中公新書)