税務署員の訪問を心から歓迎する者は、まずいないだろう。納税者にとって、税務調査は自身の懐に踏み込まれる不快な出来事となりがちだ。このような「嫌な相手」との間で仕事を円滑に進め、納税を引き出すために、関西弁が強力な武器となることがあるという。大阪国税局などで長年活躍した元職員たちが語る、納税者との信頼関係を築くための大阪弁コミュニケーション術には、ビジネスの現場にも応用可能な示唆に富むヒントが多数見出される。
税務調査におけるコミュニケーションの特殊性
税金を取り扱う行政の現場において、方言はどのような機能を果たすのだろうか。関西の税務署や大阪国税局での勤務経験を持つ大阪府出身の元職員、Z氏へのインタビューから、その実態が見えてくる。Z氏は、税務は他の行政サービスとは本質的に性格が異なると指摘する。彼は納税者をあえて「お客さん」と表現した上で、その特殊性を語る。
《書類不備であれば、取りに帰って、と言えるわけです。税金の徴収はそういうわけにはいきません。書類の書き方わからへんかったら教えますし、来た時に帰したらあかんのです。書類不備ですと言(ゆ)うて帰したら二度と来ません。後で払うわと言われてもいつ払ってくれるかわかれへんのです。今払わさんとあかんのです。ですから役所で一番親切です。》
税務調査には「現況調査」のような任意調査があるが、これは強制捜査とは異なり、納税者の同意と協力が不可欠となる。
《我々の手法にも『現況調査』といって任意調査はありますが(筆者注/強制調査は国税局査察部のみ)、別に捜査令状を持っているわけではないんです。任意ですから相手の同意がいるんです。お客さんの協力がない限りビタ一文取れないのです。したがってコミュニケーションの位置づけも異なります。》
役所内部での言葉遣いはどうでもよいことであり、重要なのは納税者という「ソト向き」の相手とのコミュニケーションだという。情報を提供してもらえなければ、調査を進めることができないからだ。
《役所の中でどんなことばを遣おうがそんなことはどうでもいいんです。それはウチ向きの話です。お客さんいててのソト向きの仕事なんで、用紙がないという声を聞いたら、用紙ありますよ、とこちらから持って行きます。お客さんが情報をくれない限り動けないのです。》
関西弁が切り開く信頼関係
納税者からすれば、税務署員は来てほしくない、自分の財布に手を突っ込んでくるような嫌な相手である。中小企業の社長や小売店の経営者にとっては、死活問題にも関わる話だ。このような個人の懐に入り込む際に、方言を使うことは非常に有効な手段となる。特に、長年商売を続けている相手にとって、関西弁はビジネス上の共通言語だからだ。
《方言の入り込み方も違ってくると思います。我々は納税者からしたら来てほしくない嫌な相手です。中小企業の社長や小売の経営者からしたら自分の財布に手を突っ込まれるようなもんです。でも個人の懐に入り込む時に方言を使うのは有効な手段です。ビジネス上の共通言語は、ずっと商売されているかたを対象とするので、関西弁です。話の枕でいかにうまくコミュニケーションをとってどんな人間関係を築くかです。》
税務署員の訪問を受ける事業主のイメージ。納税に関するコミュニケーションの重要性を示す
調査の冒頭で、場を和ませ、相手の心を開くために「どうでっか?もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな」といった関西弁での会話を交わすのはごく普通のことだという。そして、単なる雑談に留まらず、方言を使うことで、時に相手の「本当のところ」を引き出すことも可能になる。通常のお金の流れを把握し、イレギュラーな箇所を見つけた際には、標準語での問い詰めよりも、意図的に方言を使う方が効果的な場合がある。
《ですから、冒頭に『どうでっか?もうかりまっか?』『ぼちぼちでんな』という会話をするのは普通です。半日かけて通常のお金の流れを把握して、イレギュラーの箇所を書類から見つけるのですが、方言を使ったほうが本当のことを言いますね。『どうしてですか?』より『あんた、言ってること、違うやん?なんででんねん、社長?なんでこんなことしまんねん?』というふうに、意図して方言を使います。》
交渉と納得への導き
税金を取り立てる際も、単に強制するのではなく、相手を怒らせないように、あるいは会社を潰さないように配慮する必要がある。グレーゾーンについては、納税者にも言い分がある場合が多い。このような状況で、関西弁は交渉の道具としても機能する。
《むりやり追徴して会社を潰したらだめなんです。灰色の部分などは相手にも言い分があります。(追徴の)100見つけたら、(全部払って会社が潰れる場合など)『50は今払うてや。50(期間損益のずれなど)は今度しっかり儲けて(納税)し直してや』と関西弁で入って、同じビジネスの土俵で勝負してビジネスのセンスの範囲内で話をつけていかないと相手は納得しません。納得させて正しい方向へ導くというか、納得ささなあかんところが他の行政と違うところでしょう。》
租税法律主義の下では、税額が恣意的に決められることはないが、税務署は他の役所に比べて、ある意味で一番融通が利く場所だとZ氏は語る。それは、方言を用いて相手の世界に入り込み、情報収集を進めるという独自の手法があるからかもしれない。
大阪国税局の調査力と方言
Z氏はさらに興味深い指摘をする。大阪国税局は、全国の国税局の中でも特に調査能力が高いと言われているが、その背景には、関西弁という商売人とのコミュニケーションツールを持っていることが影響しているのではないか、という説だ。
《租税法律主義ですから、負けてあげるとかひどく取られることもないですが、ある意味一番融通のきく役所やと思います。方言で相手の世界で情報収集して調査を進めていく役所ですね。ちなみに大阪国税局は調査能力が一番高いんです。それは関西弁という商人とのコミュニケーションツールを持っているから、方言が効いているのかもわかりません。東京は権利意識が強いから標準語で法律でバシバシ割り切る。税の世界の文化の違いでしょうか。》
東京では標準語で法に基づいて厳格に対応する文化があるのに対し、関西、特に大阪では、共通言語である関西弁を使って相手との距離を縮め、人間関係を築きながら、ビジネスの感覚で納税の話を進めていく文化がある。この文化的な違いが、税務調査の進め方や結果にも影響を与えている可能性は高い。納税というデリケートな問題において、方言がコミュニケーションの潤滑油となり、信頼を醸成し、最終的な納得と納税に繋がるというのは、関西ならではの興味深い現象と言えるだろう。
参考文献
- 札埜和男『大阪弁の深み その独特の魅力を味わう』(PHP新書)