コメなど食料品価格が高騰する現在ですが、終戦直後はさらに過酷でした。そんな中、野菜の適正価格取引を目指し立ち上がったのが尾津喜之助です。新宿に闇市を築いた彼は、八百屋ボスとの交渉に挑みました。この記事では、戦後新宿闇市のドンと呼ばれた尾津の活動とその時代背景を追います。
戦後日本の食糧難と闇市のイメージイラスト
終戦直後の混乱と尾津の台頭
昭和20年後半から翌年にかけ、尾津喜之助は生涯で最も多忙な時期。秋田犬を連れ、「関東尾津組」印半纏でマーケットを見回る姿は、闇市内で畏怖されました。酒と日差しに焼けた黒い顔、鋭い目つき、一文字に結ばれた大きな口。痩せながらも肩を張り胸を反らし歩く精悍な様子は、「えもんかけ」と陰で呼ばれたほどです。この鬼気迫る姿で、彼は焼け野原となった新宿の闇市を牽引しました。
テキヤ再編と尾津の組合トップ就任
昭和20年10月16日、尾津は東京露店商同業組合理事長に選出。これは戦前からの親分衆が腰が引ける中、彼自身が名乗り出た側面が強いとされます(注22)。戦中休眠したテキヤの組合は終戦後再編され、日本の当局もこれを公認。組合は警察管内ごとに支部を置き、庭場を持つ親分が支部長となり、徴税や取り締まり権を委任されました。例えば昭和21年初頭の新橋では、露店商に対し入会金、月会費に加え、ゴミ銭、道路占有料、電灯料、さらには直接税や間接税など様々な費用が徴収されていました。組合の鑑札を持つ者は、他地域での商売も許されました(注23)。尾津はこの在京テキヤ組織のトップに君臨することとなったのです。
公定価格撤廃とインフレ加速
昭和20年11月17日、青果物および鮮魚介の公定価格と配給統制が撤廃され、自由な値付けが可能になりました。これにより、尾津が率いる新宿マーケットでは、取り扱う商品の価格が全体的に一時約4割安価になりました。店舗もヨシズ張りから板張りへと代わり、ようやく安定が見られるかと思われました。しかし、問屋が品物を卸さず、物資不足が深刻な状況で価格自由化だけが進んだ結果、急激なインフレーションを招きました。終戦直後の昭和20年8月から年末12月までのわずか4ヶ月間で、東京の卸売物価は2倍に跳ね上がったのです。
終戦直後の混乱期、尾津喜之助は新宿闇市を牽引し、露店商組合を組織化しました。公定価格撤廃で一時的な変化はあったものの、物資不足下のインフレという過酷な現実が尾津のような「闇市王」台頭の背景でした。
(注22)「新聞記者」第3巻第1号(昭和23年)
(注23)『中小商工業の振興策』川端巌(昭和22年)