東京・吉祥寺の閑静な一角に位置する「カスピアン」は、色鮮やかな手織りのペルシャ絨毯が整然と並ぶショールームです。緻密で繊細な模様、趣深い色彩、そして手仕事ならではの温もりが息づく絨毯の数々を、店主のアハマッド・レファヒー(アリ)さんは、まるで一つひとつに記憶があるかのように大切に扱います。35年前に「受け入れられた」と感じたこの異郷の「美しい国」日本に根ざし、順調だったエスニックビジネスも、激動する世界情勢と不安定化する社会の荒波の中で、今、試練の時を迎えています。
東京・吉祥寺の店舗「カスピアン」で、手織りの美しいペルシャ絨毯を手に紹介するイラン人店主アハマッド・レファヒー氏。
緊迫する故郷イランとビジネスへの影響
「本当はこの春にイランに行く予定だったんですが…」。レファヒーさんは少し戸惑い気味に言葉を選びました。毎年、イランの新年「ノウルーズ」が明ける春先は、大切な仕入れの季節でした。しかし、今年は例年にない不穏な動きを察知し、渡航を自粛。案の定、その直後にイスラエルや米国による軍事攻撃を受け、イラン国内は大混乱に陥ったのです。今も不安定な情勢が続いています。
レファヒーさんは肩を落とし、「以前は毎週のように、きちんと品物が届いていました。ただ、今は薬や緊急物資の配送、輸送が優先で、私たちの商品を運べるような状態ではありません」と語ります。既に完成した絨毯商品は、テヘランのバザールにある店舗に眠ったままだと言います。米軍によるイラン核施設への攻撃後、イラン国内の通信状況は悪化し、以前からの水不足や停電も加わり、各地で暑い夏を迎える中で人々の暮らしは窮迫し、不安と不満が高まっています。レファヒーさんは、連絡を取る現地の知人づてに知る故郷の様子を伝え、「停戦したとはいえ、まだ緊張状態が続いています。皆が一番嫌に思っているのは、この不安定な状態です」と語ります。「『判断、決断できない不安』が一番苦しいと言っています。平和になるのか、戦火が広がるのか分からないまま、日々が過ぎていく。未来が描けないんです」
戦火を逃れ、「平和な国」日本へ
「小さい頃から『ジャパン』という名前が好きでした」と親日的なレファヒーさんは、イラン・イラク戦争が終結して間もない1990年末、23歳の時に日本に渡りました。祖国は当時戦争で荒廃し、10~20代の若者を中心に街は失業者にあふれていました。そうした中、イランで経営マネジメントを学んだというレファヒーさんは、「日本の経済成長に興味があった。なにより、日本は平和な国に思えた」と振り返ります。戦争中に放映され、イランでも国民的人気を博したNHK連続テレビ小説「おしん」も、日本への憧れを後押ししました。「放送時間になると、通りから人がいなくなり、みんなテレビに釘付けでした」とレファヒーさんは証言します。日本のドラマや戦後の復興の様子、そして平和を求める姿勢に感銘を受け、来日を決意。10代で従軍も経験したレファヒーさんは、「戦争が終わった時、私たちが一番欲しかったのは平和だったんです」と語りました。
来日した1990年の日本は、バブル景気に沸き立つ活気にあふれていました。厳しい国情のイランとはまるで違い、日本は「パラダイスのような」場所に映ったと言います。
日本への適応と「受け入れられた」という実感
来日当初、日本語は全く話せなかったものの、電車や街中で目にする知らない日本語をひたすらメモし、必死に覚えたレファヒーさん。カスピ海沿岸のラシュト出身で、白いお米や魚を食べる文化的背景もあり、日本の食事にも早く馴染むことができました。納豆は味噌汁に入れて食べるなど工夫し、慣れてくると生卵と一緒にかき込むなどアレンジ。美味しそうに食べていると、居合わせた見知らぬ関西弁の男性に「よう食えるなあ」と感心されたことも。今では週3回は食べるほど納豆が好きになったそうです。マグロは特にお気に入りで、「『マグロ男』って呼ばれています」と笑顔を見せます。
「日本は自分を受け入れてくれた。差別されたと感じた経験はなかった」と言い切るレファヒーさん。日本に、そして地域社会に根を張り、35年ほどの時間を過ごしてきました。彼が日本に馴染み、社会に溶け込んだ結果、日本が彼を受け入れたのかもしれません。
「美しい国」日本の変わらぬ印象と新たな決意
ただ、1990年前後、当時日本で暮らしていたイラン人全体を見渡せば、レファヒーさんのような人は少数派でした。偽造テレホンカードなどの悪事に手を染めるなどした不法滞在のイラン人も少なくなく、後に一斉検挙により大半はイランへと送還されていった事実もあります。レファヒーさんが運が良かったというわけではありません。彼は努めて細心の注意を払っていました。自国と違う様々なルールを破らぬよう、法律を犯さぬよう、「違反なく、気を付けて日本で今まで生きてきた」と振り返ります。ゴミが落ちていれば拾って歩くほど、清潔な日本の道路をきれいに保とうと努めて生きてきたのです。
初めて日本に来た時に感じた、バブル景気に沸く「パラダイス」日本は今や色褪せたかもしれません。しかし、来日当初に抱いた「美しい国」という印象は今も変わっていません。ペルシャ絨毯販売で成功した今も、「日本人は真面目で、よく働きます」と日本人の性質を謙虚に見据えます。日本が戦後復興を果たしたことにも得心がいき、学ぶことが多くあったと回顧します。来日して数カ月のうちに「もうイランへは帰らないつもりだ」と家族に電話で伝えたレファヒーさん。この地で生きていく覚悟と決意を新たにしたのです。
激動の世界情勢のただ中で、故郷を案じながらも、日本での生活とビジネスを真摯に続けるアハマッド・レファヒー氏の物語は、平和の尊さと異文化共生の可能性を私たちに示唆しています。彼のペルシャ絨毯は、単なる商品ではなく、故郷イランと彼が愛する日本をつなぐ、希望の架け橋なのかもしれません。