石川さゆり「天城越え」誕生秘話:国民的演歌の裏に隠された情念のドラマ

日本が誇る不朽の名曲「天城越え」は、多くの人々にとって情熱的で切なく、心の奥底に響く一曲として認識されています。年末の風物詩である紅白歌合戦では、石川さゆり(67)がこの楽曲を幾度となく披露し、日本中に感動を与えてきました。その歌声は大晦日の夜には欠かせない存在となり、「天城越え」を聴かずして一年が終わらないと感じる人も少なくありません。しかし、この国民的演歌がどのようにして生まれたのか、その壮絶な制作秘話はあまり知られていません。

石川さゆりが熱唱する「天城越え」の情景を彷彿とさせる、力強い歌声と表現力に満ちた姿。石川さゆりが熱唱する「天城越え」の情景を彷彿とさせる、力強い歌声と表現力に満ちた姿。

時代を象徴する「情念の歌」としての地位

石川さゆりはこれまでに紅白歌合戦に47回出場(2024年まで)し、そのうち9回も紅組のトリを務めるという、演歌界のレジェンドです。特に「天城越え」は、「津軽海峡・冬景色」と並んで、これまでに13回も歌唱されており、その人気と重要性は計り知れません。この楽曲が持つ激しくも切ない情念は、多くの男女の心を捉え、世代を超えて愛され続けています。その深い感情表現と圧倒的な歌唱力によって、石川さゆりは「演じる歌」としての演歌の真髄を見事に体現しています。

演歌歌手・石川さゆりが舞台で「演じる歌」を体現し、感情豊かに歌い上げる様子。演歌歌手・石川さゆりが舞台で「演じる歌」を体現し、感情豊かに歌い上げる様子。

名曲を生み出した奇跡の出会いと背景

「天城越え」の誕生には、二人の偉大な才能が深く関わっています。作詞を手がけたのは、美空ひばりや都はるみなど、数々の名曲を生み出した吉岡治(享年76)。作曲は、石原裕次郎や川中美幸の楽曲を世に送り出した弦哲也(77)です。吉岡は石川にとって100曲以上もの詩を書いてもらった恩師であり、両者の信頼関係がこの楽曲の深みにつながっています。石川さゆりが「天城越え」を発表したのは1986年、彼女が28歳の時でした。当時、元マネージャーでカメラマンの馬場憲治氏との間に長女をもうけて2年余り。この時期は、都はるみが「普通のおばさんになります」という有名な言葉を残して引退を宣言した直後であり、日本コロムビアは新たな演歌のスターを育成しようと、石川さゆりに白羽の矢を立てたのです。1977年の「津軽海峡・冬景色」の大ヒットで日本レコード大賞歌唱賞を受賞していましたが、コロムビアは彼女にさらなる高みを目指してほしいと強く願っていました。そして、その舞台は伊豆の天城に決定しました。

天城での合宿:具体的な地名が織りなす情景

楽曲制作のため、吉岡治、弦哲也、そしてスタッフは伊豆の宿に籠もりました。吉岡の数行の詞に弦がメロディーをつけ、詞とメロディーのキャッチボールを繰り返しながら、徐々に曲の形ができていきました。この制作過程において、決定的な転機が訪れます。曲の録音が進む中、吉岡が散歩に出かけ、戻ってくると「浄蓮の滝」「寒天橋」「天城隧道」といった具体的な地名を入れることを強く提案したのです。この具体的な地名の挿入により、歌詞は単なる情念の描写を超え、聴く者がまるでその場所にいるかのような臨場感と深い情景を心に描くことができるようになりました。これにより「天城越え」は、地域に根ざした物語性と普遍的な感情が融合した、唯一無二の名曲として完成したのです。

このように、「天城越え」は、石川さゆりの歌唱力、作詞家と作曲家の才能、そして伊豆の具体的な情景が見事に融合し、多くの人々の心に深く刻まれる不朽の演歌となりました。その制作背景には、単なる楽曲制作を超えた人間ドラマと、細部にわたるこだわりが存在し、それが今日まで愛される理由を物語っています。


参考文献: