フェンタニル、米国で拡大する「ゾンビ」現象:日本への深刻な警鐘

医療現場で強力な鎮痛剤として重宝される麻薬性鎮痛剤フェンタニルは、米国で密造品の過剰摂取により年間数万人規模の死者を出しており、深刻な社会問題となっています。脳などの中枢神経系を強く抑制するこの薬物は、乱用によって筋肉が弛緩し無気力状態に陥るなど、特徴的な副作用を伴います。中には、上体を曲げ腕を垂らす、いわゆる「ゾンビ」のような行動をとるケースも報告されています。日本国内ではまだ密造フェンタニルの大規模な流通は確認されていませんが、若者を中心に薬物の過剰摂取が拡大傾向にある中で、専門家は「対岸の火事とは言い切れない」と警鐘を鳴らしています。

「く」の字に曲がる異様な光景:サンフランシスコの現状

米国の繁華街から一本路地を入ると、異様な光景が目に飛び込んできます。上体を深く折り曲げた「く」の字の姿勢で立ち尽くしたり、徘徊したりする人々がそこには存在します。歩道の隅では、男女を問わず数人ずつが集まり、虚ろな目で宙を見つめ、座り込んでいる姿も散見されます。通りに店は並ぶものの、その多くはもぬけの殻となっているのが実情です。ジャーナリストの堀潤氏(48)は、フェンタニル乱用者が多いとされる現地を取材し、「ゾンビ映画で見たことがあるような街」と語っています。堀氏は2023年末から2024年初めにかけての3日間、米西海岸サンフランシスコのテンダーロイン地区を訪れました。同地区はかつてデパートや商店で賑わっていましたが、新型コロナウイルス禍で路上生活者が急増し、店舗の閉鎖が相次いだことで荒廃。比較的安価で手に入るとされるフェンタニルは、こうした貧困層にも瞬く間に広まったとみられています。

フェンタニル乱用者の特徴とされる体を「く」の字に曲げた状態の人が立ち尽くす米サンフランシスコのテンダーロイン地区の様子。フェンタニル乱用者の特徴とされる体を「く」の字に曲げた状態の人が立ち尽くす米サンフランシスコのテンダーロイン地区の様子。

モルヒネの100倍:フェンタニルの特性と乱用拡大の背景

ケシ由来のアヘンに含まれる「モルヒネ」と似た作用を持つ薬物は「オピオイド」と総称されます。天然由来のオピオイドには呼吸抑制や便秘といった欠点がありましたが、フェンタニルはこれらの点を改良するため、1960年代に合成されました。その鎮痛効果はモルヒネの約100倍にも達し、少量で高い効果を発揮するため、がんの緩和治療や手術時の麻酔薬として医療分野で広く使用されています。

薬物乱用問題に詳しい武蔵野大学の阿部和穂教授(薬理学)によると、米国では製薬会社のマーケティング戦略も相まって、およそ30年前からオピオイドが安易に処方されるようになり、国民の間に依存症が蔓延しました。薬物の効果が切れる際には強い不快感に襲われるため、より強い効果を求める声が高まり、2010年代にはフェンタニルの乱用が顕著になりました。さらに、コロナ禍が乱用の爆発的な増加を加速させました。米疾病対策センター(CDC)のデータによると、2021年から2023年にかけて、毎年7万人以上がフェンタニルを中心とする「合成オピオイド」の過剰摂取により命を落としています。

米国で年間数万人が犠牲に:日本が直面する薬物問題の課題

米国におけるフェンタニルによる甚大な被害は、他国の薬物問題に対する警鐘として捉えられています。日本では、米国のようなフェンタニルの大規模な乱用はまだ見られませんが、若者層を中心に他の薬物の過剰摂取が増加傾向にあり、新たな薬物問題の火種となる可能性を秘めています。フェンタニルの密造ルートや流通経路が確立されれば、瞬く間に日本社会にも深刻な影響を及ぼす恐れがあります。米国での事例を教訓に、政府、医療機関、教育機関が連携し、薬物乱用の予防啓発、治療体制の強化、そして水際対策の徹底を進めることが、喫緊の課題となっています。

参考文献