角川春樹氏、「天秤棒」訴訟で実弟・歴彦氏に敗訴

かつて出版界に革命をもたらし、「メディアミックス」戦略で一時代を築いた角川春樹氏（83）が、実弟・角川歴彦氏（81）との間で長年続く確執の末、象徴的な「天秤棒」の所有権を巡る法廷闘争で敗北を喫しました。東京地方裁判所は2025年7月10日、春樹氏が「天秤棒」の返還を求めた訴えを棄却する厳しい判決を下し、訴訟費用も全て春樹氏の負担としました。この古びた一本の棒は、単なる品物ではなく、巨大メディアグループKADOKAWAの礎を築いた角川家の精神そのものを象徴する「家宝」でした。

「天秤棒」に込められた角川家の魂

今回、法廷で争点となった「天秤棒」は、表面が長年の使用で摩耗し、デコボコに変形した長さ168cmの木製の棒です。この天秤棒は、角川書店の創業者である父・角川源義氏（1975年没）が生涯大切にしてきたものであり、角川家の原点にして魂の象徴とされています。源義氏は1917年、雪深い富山の貧しい家に生まれ、後に北陸一の米問屋となる父・源三郎氏が鮮魚商時代に魚を運ぶために使っていた天秤棒を受け継ぎました。

源義氏は著書『角川書店と私』の中で、この天秤棒が角川家の苦難と精神の象徴であることを回顧しています。雪深い村々を魚を担いで売り歩いた父の姿、そしてその天秤棒が「縄が使えなくなるほど摩れて痩せた」という描写からは、貧しさの中で懸命に働く家族の姿が浮かび上がります。1945年の角川書店創業後も、源義氏はこの天秤棒を心の支えにしていました。倒産寸前の厳しい経営状況の中、源義氏は夢の中で返品の山と共に焼け死のうとする悪夢を見た際も、「父からもらった天秤棒を取り出してみて、負けちゃならんと思い、もう一度がんばろうという気持になることがあった」と綴っています。このエピソードからも、天秤棒が単なる思い出の品ではなく、逆境に屈しない角川家の精神、ひいては角川書店の経営理念そのものであることが伺えます。

1993年公開の映画『REX 恐竜物語』で主演の安達祐実と、出版界の革命児として知られた角川春樹氏。メディアミックス戦略で時代を築いた氏のカリスマ性を示す一枚。

メディアミックスの寵児、そして確執へ

源義氏が1975年に58歳で逝去した後、後継者となった長男の春樹氏は、父の堅実な路線とは一線を画し、大胆な経営手腕を発揮します。映画制作に乗り出し、自社の出版物と連動させる「メディアミックス」戦略を推進。『犬神家の一族』（1976年）、『人間の証明』（1977年）、『セーラー服と機関銃』（1981年）など数々の大ヒットを連発し、自ら製作総指揮を務めながら派手な言動でマスコミを賑わせ、「出版界のカリスマ」としてその名を轟かせました。

しかし、1993年8月、春樹氏は麻薬取締法違反で逮捕され、角川書店の社長の座を追われることになります。春樹氏の著書『わが闘争』（2005年刊）によれば、春樹氏は獄中から実弟・歴彦氏を社長に指名しましたが、出所後、経営から排除されたと主張しています。一方、歴彦氏は堅実な経営者として知られ、混乱した社内をまとめ上げ、社名を「KADOKAWA」に変更。2014年のドワンゴ統合やアニメ・ゲーム事業の拡大を通じて、デジタル時代に対応した巨大メディアグループへと成長させました。

この間、兄弟間の溝は深まるばかりでした。『わが闘争』には2004年の母・照子氏の葬儀でも両者が対立し、「歴彦とは決定的に決裂した。もはやきょうだいが仲良く、角川家がひとつになるということはありえなくなった」と記されています。この長年にわたる確執の最終舞台ともいえるのが、今回争われた「天秤棒」だったのです。

「父との約束」と法廷の判断

源義氏の死後、社長室に保管されていた天秤棒は、会社のシンボルとして創立記念式典で飾られることもありました。しかし2004年、歴彦氏は天秤棒の管理を自身が関与する「角川文化振興財団」に委託し、以降、財団が保管しています。

2023年9月、春樹氏は「角川文化振興財団」を相手取り、天秤棒の返還を求める訴訟を提起しました。その根拠として、春樹氏は父・源義氏との「最期の約束」を主張しました。それによると、源義氏は1975年に癌で入院中の病室で、母・照子氏の前で春樹氏に対し、「自分が亡くなったら、春樹が天秤棒を大切に大切に持ち続けてもらいたい。天秤棒を見ては源三郎が築いた角川家の原点、その精神を常に思い出しなさい」と語ったとされています（判決文より）。春樹氏はこの発言が民法の「死因贈与」に該当し、父の死により天秤棒の所有権を取得したと主張しました。さらに、天秤棒は祖先を祀る「祭具」であり、自身が「祭祀承継者」として継承すべきであると訴え、長期間社長室に置かれていたことから「時効取得」により所有権は自分にあるとも論じました。

しかし、東京地裁は春樹氏の主張をすべて棄却しました。主張の核心である「死因贈与」については、「何らの裏付けも存在しない」と一蹴。裁判所は、照子氏の「看病日記」を根拠に、「源義が原告（春樹氏）に本件天秤棒を引き継ぐ旨を述べたという記載は存在しないところ…仮に、源義が原告に本件天秤棒を引き継ぐ旨を述べたという事実を照子が聞いたとすれば、その事実を照子が上記看病日記に記載しないということは考え難いというべきである」と判断しました。つまり、看病に付き添った妻が夫の重要な遺言を記録しないはずがなく、日記に記載がない以上、春樹氏の供述は採用できないと結論づけられたのです。

加えて、「祭具」の主張も退けられました。裁判所は、「源義は、角川家の家業ともいうべき角川書店の経営の励みとして、本件天秤棒を角川書店の事務所の社長室に保管していたのであって、そのような保管及び使用状況に照らせば、源義は、本件天秤棒を祖先の礼拝に供していたとは認め難い」と判断しました。これは、源義氏が天秤棒を自宅ではなく社長室に保管していた事実を重視し、宗教的な祭具ではなく、ビジネスにおける精神的支柱であったとみなしたものです。そして、「時効取得」についても、「原告は、本件天秤棒の占有権を共同相続したにすぎないのであって、原告が本件天秤棒を単独で自主占有していたとは認められない」と結論づけられました。春樹氏個人のものではなく、歴彦氏らを含む相続人全体の財産を代表して預かっていたに過ぎず、単独所有ではないため、時効取得は成立しないとしたのです。

この判決について、角川春樹事務所は「本件の取材はお断りします」と回答しています。一方、角川文化振興財団は、「天秤棒は当財団でずっと保管をさせていただいてきたものですので、引き続き保管させていただきます」と述べています。一本の古びた棒に込められた角川家の魂は、兄弟の骨肉の争いをどのように見つめているのでしょうか。