公営競技の華やかな世界で活躍するボートレーサー、倉持莉々選手(31歳)。2014年のデビュー以来、数々の栄冠を手にしてきた彼女のキャリアは、想像を絶するがんとの闘病から始まりました。その壮絶な経験が、どのように彼女の競技人生を形作ったのか、その軌跡を辿ります。日本独自の激しい水上格闘技の舞台裏で、一人の女性が困難を乗り越え、夢を追い続ける姿は、多くの人々に勇気を与えています。
ボートレースの過酷さと倉持選手の軌跡
ボートレースは、最高時速約80kmで水面を疾走し、体感速度は時速120kmにも達するといわれる極めてスリリングな競技です。2つのターンマークを旋回し、1周600mのコースを3周して順位を競います。強靭な精神力と瞬時の判断力が求められるこのスポーツは、海事関係事業の振興を目的に1952年に日本で開始され、現在では韓国でも開催されています。
年齢や性別に関わらず競い合うこのフィールドで、全国1616人のボートレーサーのうち、女性は272人。その中で倉持莉々選手は、わずか20歳でデビューを飾り、多くの優勝を経験してきました。彼女の運動神経は幼少期から際立っており、小学校5年生で水球を始め、中学校では全国制覇を達成。水泳の強豪校に進学後、高校2年生で日本女子代表に選出され、ワールドリーグ・アジア・オセアニア・ラウンドに初出場しました。2012年にはJOCジュニアオリンピックカップでの優勝を果たすなど、輝かしい実績を重ねていました。
その先に倉持選手が目指したのは、父親の勧めと、女子選手への憧れが重なった「ボートレーサー」という新たな夢でした。
夢の養成所直前に襲った悪夢:悪性リンパ腫の発覚
ボートレーサーとなるためには、国内唯一の養成機関である「ボートレーサー養成所」への入所が必須です。身長、体重、視力といった厳格な応募資格をクリアし、倍率30〜40倍ともいわれる難関を突破した倉持選手は、17歳で合格。高校3年生の10月に入所を控えていました。
しかし、そのわずか2週間前、彼女の体を思いがけない病魔が襲います。数カ月前から感じていた体調不良のサインは、徐々に深刻なものになっていました。倉持選手は当時の状況をこう振り返ります。「真夜中にお腹が痛くなることが続き、寝汗もひどかったです。ボートレーサーに必要な減量をしていたので体重減少には気づきませんでしたが、首のしこりがどんどん大きくなり、異常を感じました。」
寮生活のためすぐに病院に行けない状況でしたが、高熱が続いたため監督に相談し、ようやく医療機関を受診。数軒の病院を回ったものの、「風邪で扁桃腺が腫れている」という誤診が続きました。しかし、自らの体の異変を確信していた倉持選手は、大学病院での精密検査を強く希望。そこで初めて、病名が明らかになったのです。
診断されたのは「ホジキンリンパ腫」。これは白血球の一種であるリンパ球ががん化する悪性リンパ腫の一種で、日本では10万人に1人程度しか発症しない稀な病気です。診断時にはすでに肺や股関節にも転移しており、医師からは「一刻も早く、抗がん剤治療を始めましょう」と告げられました。
想像を絶する抗がん剤治療の現実
ボートレーサーという夢を目前に控え、突然始まった抗がん剤治療は、倉持選手にとって過酷な日々となりました。治療は2週間に1回、6種類の薬を1日かけてゆっくりと点滴で投与されるものでした。
その度に、体中の節々に激痛が走り、舌は痺れて味覚を失い、吐き気にも絶えず苦しめられました。特に辛かったのは、抗がん剤が光に弱いため、暗い室内で「血管が潰れるような」と表現されるほどの激痛に耐えなければならなかったことです。肉体的、精神的な限界を試されるような闘病生活が続きましたが、彼女は決して夢を諦めませんでした。
ボートレーサーとして活躍する倉持莉々選手のポートレート。水面での熾烈な競技を象徴する表情。
逆境を乗り越え、夢の舞台へ
難病の発覚と壮絶な治療にもかかわらず、倉持莉々選手はボートレーサーになるという揺るぎない夢を抱き続けました。その不屈の精神力と、目標へ向かう強い意志が、彼女を厳しい闘病生活から立ち上がらせ、最終的には水上の舞台へと導いたのです。彼女のキャリアは、単なる競技成績以上の意味を持ち、逆境に立ち向かう全ての人々にとっての希望と勇気の象徴となっています。