静岡県伊東市の田久保眞紀市長を巡る「学歴詐称問題」は、その混乱が収まることなく、東洋大学にまで飛び火し、SNS上では大学の偏差値に関する激しい論争を巻き起こしました。近年、大学教育の質や建学の精神といった本質的な「らしさ」よりも、偏差値ばかりが近視眼的に注目される傾向にあります。本記事では、この問題を通して、大学が持つ「見えざる資産」である「らしさ」の重要性と、それが教育機関の存続、ひいては学生の成長にどのように関わるかを考察します。
伊東市長「学歴詐称」問題の波紋とSNSでの「偏差値論争」
今年5月の伊東市長選で初当選した田久保眞紀氏は、市の広報誌などで「東洋大学卒業」と記載していましたが、実際には除籍されていたことが判明しました。この問題を受け、7月7日には市議会で辞職勧告決議が可決され、田久保市長は「卒業したと思っていた」と釈明した上で辞職、出直し市長選への再出馬を表明しています。
この一連の騒動に、ホリエモンこと堀江貴文氏がX(旧Twitter)で「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ」と投稿し、大きな波紋を呼びました。この発言は、伊東市長の学歴詐称問題だけでなく、東洋大学を含めた日本の大学の評価基準、特に偏差値に関する議論をSNS上で過熱させるきっかけとなりました。
伊東市長の学歴詐称問題に言及した堀江貴文氏の肖像:X(旧Twitter)での「Fラン私大の学歴詐称なんかどーでもいいだろ」発言
偏差値偏重が生み出す大学の「らしさ」軽視:見えざる資産の重要性
現代の日本の高等教育においては、教育・研究内容や、大学の根幹をなす建学の精神が軽視され、偏差値という単一の指標で大学が語られる傾向が顕著です。残念ながら、受験生や保護者、高校の進路指導教員だけでなく、大学の在学生、卒業生、教職員の中にも、創立100年を超える伝統校であっても、その創立者が掲げた建学の精神や歴史をほとんど知らない人が少なくありません。
しかし、「大学全入時代」が現実のものとなり、有名大学への受験生集中が進む一方で、多くの大学が学生確保に苦しむという二極化が加速しています。このような状況下で、各大学が持つ「らしさ」は、単なるブランドイメージに留まらない、大学存続をかけた経営戦略の根幹をなす要素となります。受験生にとっても、大学選びは将来のキャリアだけでなく、人間形成や卒業後の人生のあり方にも深く関わるため、「らしさ」の有無は極めて重要な判断基準となり得ます。大学が提供する独自の価値、すなわち「見えざる資産」としての「らしさ」こそが、これからの時代に求められる真の競争力となるのです。
伝統私学に息づく「らしさ」と東洋大学の課題
例えば、早稲田大学の「進取の精神」、慶應義塾大学の「独立自尊」、同志社大学の「良心」といった伝統私学は、創立者の建学の精神に裏付けられた明確な「らしさ」を確立しています。これらの大学は、単に学術的な知識を提供するだけでなく、その「らしさ」を通じて学生のアイデンティティ形成に深く寄与し、卒業生が社会で活躍する上での精神的支柱ともなっています。
一方、東洋大学は近年、都心回帰戦略により志願者数を伸ばすことに成功していますが、前述の伝統私学と比較すると、その「らしさ」がまだ十分に鮮明ではないという課題を抱えています。伊東市長の学歴詐称問題に端を発した今回の「偏差値論争」は、東洋大学にとって、偏差値競争の枠を超え、自らの建学の精神や教育理念に立ち返り、固有の「らしさ」を再構築する機会とも言えるでしょう。
結び
伊東市長の学歴詐称問題から巻き起こった「偏差値論争」は、現代の大学が直面する本質的な課題を浮き彫りにしました。大学が持続的に発展し、学生が真に価値ある学びを得るためには、表面的な偏差値に囚われることなく、その根底にある「建学の精神」や「教育理念」を基盤とした「らしさ」を再認識し、その価値を社会に明確に提示することが不可欠です。この「見えざる資産」の再構築こそが、これからの大学経営、ひいては日本の高等教育全体の質を高める鍵となるでしょう。
参考文献
- 時事通信社 (写真提供元)
- 東洋経済オンライン (元の記事掲載元)