私は、雑誌『ポパイ』がアメリカ文化を積極的に紹介していた1970年代中期に思春期を過ごした。当時をご存じの方なら察しがつくと思うが、現代よりもずっと欧米が(精神的に)遠かった時代である。だから、多感な時期にあった少年がいわゆる“アメリカかぶれ”になるのはむしろ必然だった。
アメリカのことを知りたかったし、アメリカの音楽にも惹かれたから、FEN(現AFN:在留米国軍人向けラジオ)を日常的に聴いていた。すると、いつの間にやら英語に対する抵抗感が消え、高校1年のころには簡単な英会話ならできるようになっていた。ただのアメリカかぶれだったのに、好奇心とは驚くべきものである。
■「間違えたら恥ずかしい」で話せなくなる
しかも“恥”というものを知らなかったので、街なかで外国人とすれ違ったりすると「ハァ〜イ!」と片腕を上げ、にこやかに話しかけて友だちになったりもした(絶望的に恥ずかしい)。その年末にはひょんなことから2週間におよぶ渡米の機会にも恵まれ、ロサンゼルスでも恥知らずっぷりを発揮した。そのため、アメリカ、そして英語との距離はさらに縮まっていった。
帰国後は「ハァ〜イ!」の頻度もさらに高くなり、“なんだか面倒で、できれば距離を置きたいと思わせる高校生”としての立ち位置を確立したのであった。
英会話など、まったく怖くなかった。
ところが20代にさしかかると、遅咲きの恥じらいがようやく顔を出してきた。いかにも遅すぎるが、ことあるごとに「間違えたら恥ずかしい」というような不安が頭をよぎるようになり。気がつけば英語で話すことなんかできなくなっていたのである。
同じ人間とは思えないし、「そんな極端な話があるか」とツッコミが入っても無理はないだろうが、事実なのだから仕方がない。そのため、いまもなお「恥知らずだったあのころに戻れたらなあ」という思いを引きずりながら、英会話をドロップアウトした自分を恥じているのである。






