山形県の一部地域に古くから伝わる「ムカサリ絵馬」という独特な風習があります。これは、未婚のまま生涯を終えた故人の冥福を祈り、遺族が絵師に依頼して「あの世での結婚式」の様子を描かせ、寺院や観音堂に奉納するものです。この伝統的な文化を20年以上にわたり守り続ける女性絵師、高橋知佳子さん(52)のもとには、地元のみならず全国から依頼が寄せられています。本稿では、ムカサリ絵馬とは何か、そして高橋さんがいかにしてこの重要な役割を担うことになったのかを深掘りし、今もなお受け継がれる風習の価値に迫ります。
山形に伝わる「あの世での結婚式」の風習
死者を悼む方法は世界中に多様に存在しますが、山形県村山地方から最上地方にかけて江戸時代から続く「ムカサリ絵馬」は、特に心温まる風習の一つです。「ムカサリ」とはこの土地の言葉で「結婚」や「花嫁」を意味し、その名の通り、未婚のまま亡くなった故人の幸せを願い、遺族が結婚式の光景を絵馬に描き込んでもらうものです。
「絵馬」と聞くと神社の小さな板を想像しがちですが、ムカサリ絵馬は大きいものでは一辺が1メートルにもなる「絵」そのものです。例えば、山形県天童市にある若松寺には1300体以上ものムカサリ絵馬が奉納されており、その一つ一つからは「せめて来世では幸福になってほしい」という親や親族の切なる願いが込められていることがうかがえます。故人の隣には架空の人物が描かれ、彼らが身にまとう衣装は和装から洋装まで多岐にわたり、故人への思いが形となって表現されています。
絵師としての高橋知佳子さんの歩み:情熱と現実の間で
ムカサリ絵馬師として20年のキャリアを持つ高橋知佳子さんは、「現在でも、生前に結婚をすることがなかった故人様を思い、主に親御様などからご依頼にいらっしゃることは多いです」と語ります。高橋さんがこの特別な世界に足を踏み入れたきっかけは、シンプルに「絵が好き」という情熱からでした。
彼女の親族には彫刻家がおり、父親も絵が上手だったため、幼い頃から芸術は身近な存在でした。自身も将来は画家になるものだと信じて学生時代を過ごし、大学進学時には東北芸術工科大学からの声もかかっていたほどです。しかし、芸術の道に進むことの厳しさを痛感していた両親は、高橋さんの選択に異議を唱え、最終的には地元の農業協同組合への就職を勧めました。「あれ、画家になるはずだったのに」という思いを抱えながらも安定した職に就きましたが、仕事への関心を持てず数年で退社。その後は、様々な会社に就職したり、アルバイトで生計を立てる日々を送ります。
やがて結婚し、配偶者のおかげで生活が安定したことで、再び絵に携われるという理由からムカサリ絵馬師の道を歩み始めました。当初はボランティア感覚で、大好きな絵を描かせてもらえるならそれで良いと考えていたと言います。
ムカサリ絵馬制作の奥深さ:精神的な対峙と予約の現状
ムカサリ絵馬の制作費について、高橋さんは「始めた当初は1枚2万円でやらせていただいたと記憶しています。昭和に活躍した有名なベテランの絵馬師が1枚3万円だったので、自分はほとんど利益も出ないような金額でした」と振り返ります。しかし、昭和と令和では景気も物価も大きく異なります。多くの顧客を抱え、知名度が徐々に高まるにつれて、現在は1枚7万円に価格を見直さざるを得なくなりました。これは、下書きから画材、額縁まですべての費用を含んだ価格です。
しかし、価格に見合う以上に、ムカサリ絵馬を描くことは故人との精神的な対峙であり、精神的に消耗するため、量産は非常に困難だと言います。「だいたい月に5〜7件をお引き受けするのが精一杯です。仕事の流れとしては、近場であれば直接お目にかかって、遠方であればリモートや通話などを通じて、ご遺族とお話をさせていただきます。ご遺族から見た故人様の人生、どのようなお亡くなり方だったのか、どんな幸せを手にしてほしいか――というようなお話を丁寧に伺います。」
これらの故人への思いと誠実に向き合いながら筆を進めるため、短時間で描き上げることは不可能です。「だいたい、1日に2~3時間集中して描くのが関の山で、それですらどっと疲れてしまいます。故人様の亡くなり方が無念であればあるほど、正直、疲労感はあります。」このような事情から、現在、高橋さんのムカサリ絵馬の予約は1年半先まで埋まっている状況です。
伝統の継承と未来への希望
山形に息づく「ムカサリ絵馬」の風習は、単なる一枚の絵ではありません。それは、未婚のままこの世を去った大切な人への、遺族の尽きることのない愛情と「あの世での幸せを願う」深い祈りが込められた文化遺産です。高橋知佳子さんのような絵師の存在がなければ、この独自の伝統は時の流れとともに薄れてしまうかもしれません。
故人の人生と遺族の思いに真摯に向き合い、精神的な負担を厭わず筆を執る高橋さんの情熱は、この風習が現代社会においても色褪せることなく、多くの人々に心の安らぎと希望を与え続けている証です。ムカサリ絵馬は、死者を悼むだけでなく、生きる者が故人との絆を再確認し、未来への希望を見出すための重要な文化的役割を果たしています。この貴重な伝統が、これからも高橋さんの手によって次世代へと確かに受け継がれていくことを願うばかりです。