レイテ沖海戦、戦艦「最上」の地獄:生還将校が語る“最後の敬礼”

第二次世界大戦において日米両軍が激突し、「史上最大の海戦」とも称される1944年10月のレイテ沖海戦は、日本海軍が壊滅的な打撃を受けた戦場として歴史に刻まれています。この戦いでは、「神風特別攻撃隊」が初めて組織的に投入され、日本軍は総力を挙げて臨んだものの、その被害は甚大でした。特に、戦艦「最上」は味方艦との衝突事故に見舞われた上、最終的には味方の攻撃によって沈没するという悲劇的な運命を辿りました。今回、光文社刊『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(戸津井康之著)より、この「最上」に乗船しながらも生還を果たした加藤昇氏の壮絶な証言をお届けします。

レイテ沖海戦を生き延びた元海軍将校、加藤昇氏の肖像レイテ沖海戦を生き延びた元海軍将校、加藤昇氏の肖像

航行不能に陥った「最上」:米軍の執拗な攻撃

10月25日午前5時頃、「最上」は護衛に駆けつけた駆逐艦「曙」と共に退避を試みていました。しかし、再び米艦載機の空襲に見舞われます。視界から消えた敵艦隊は、追撃の準備をしていたに過ぎなかったのです。午前7時過ぎ、激しい爆撃を回避しながら航行を続けた「最上」でしたが、午前8時半頃にはついにエンジンが完全に停止してしまいます。

さらに約1時間後、燃料と弾薬を満載して空母から戻ってきた米艦載機による猛烈な空襲が再開されます。「最上」は立て続けにとどめとなる直撃弾を浴び、完全に航行不能となりました。艦長は「もはや戦闘不能」と判断し、乗組員に対し総員退去命令を下しました。この絶望的な状況の中、「最上」の生存者を救助するため、「曙」が速度を上げて接近してきていました。

将校の務め:部下たちの避難を優先

加藤氏は士官として、残された部下たちを先に「曙」へ乗り移らせるという重要な任務を負っていました。破壊された艦内をくまなく見て回り、「急いで退艦しろ!」と声を張り上げ、命令していきました。中にはパニックに陥り、呆然としている部下もいました。そのような兵士には、加藤氏は腕を引いたり、時には頭を叩いて「何をぼうっとしておるっ!」「早く行かんか!」と背中を押したりして、避難を促したといいます。

壮絶な決断:置き去りにせざるを得なかった負傷兵

しかし、加藤氏は生存者全員を連れ出すことはできなかったと証言しています。艦内には、脚や腕が吹き飛ばされ、血だらけになった兵士たちが多数、床に転がっていました。既に息絶えた者、意識はあるものの自力で動けない者……。艦内から運び出し、救助や治療を施したとしても、彼らの命が助かる見込みがないことは明白でした。

加藤氏は、自力で動くことのできない兵士たちを助けることができなかったと語ります。彼は彼らに対し、最後の敬礼をして別れを告げ、その場を離れるしかなかったのです。この「最上」からの脱出の証言を語る際、加藤氏の両目からは涙が溢れていました。加藤氏ら、数少ない生き残った士官たちは手分けをして艦内を徹底的に捜索し、まだ動くことができる部下たち全員に退艦命令を出し終えると、最後に自分たちが避難しました。

死地からの脱出:海への飛込みと「曙」による救助

まだ敵機の攻撃にさらされている中、「曙」は「最上」から少し離れた位置で待機していました。残された士官たちは、沈みゆく「最上」から急いで海へ飛び込みました。その高さは約10メートルにも及んだといいます。海面への衝撃は大きかったものの、彼らはすぐに浮き上がり、泳ぎ始めました。「曙」までは数十メートルほどの距離がありましたが、救助用のロープが海面まで垂らされており、それにつかまることで甲板の上まで引き上げられました。

加藤昇氏の証言は、レイテ沖海戦における「最上」の悲劇、そして極限状態における人間の尊厳と苦渋の決断を鮮明に伝えています。この壮絶な体験は、二度とこのような悲劇を繰り返さないための、私たちへの重要な教訓となっています。


参考文献: