A級戦犯の子孫が語る戦後80年の記憶:誹謗と向き合った日本人の心象風景

戦後80年の節目を迎えようとする今、私たちは戦争の記憶と戦後の歩みを深く顧みる時機にあります。特に、極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」とされた人々の遺族が、その後の日本社会でどのように生きてきたのかは、日本近代史の激動を映し出す貴重な鏡となります。ノンフィクション作家の早坂隆氏が、彼らの苦難と葛藤に満ちた日々を丹念に取材。本稿では、その証言を通して、日本人の心の風景と戦後の「出発点」を見つめ直します。

「A級戦犯」の定義と極東国際軍事裁判の意義

そもそも極東国際軍事裁判、通称「東京裁判」において、いわゆる「A級戦犯」とは、「平和に対する罪」で訴追された人々を指します。この裁判では100名以上が容疑者として逮捕され、最終的に28名が起訴され、そのうち7名が絞首刑に処されました。敗戦から時が流れ、戦争の記憶が薄れるのは自然なことですが、先の大戦が「同時代史」ではなく「歴史」として位置づけられる令和の現代だからこそ、私たちはより冷静かつ客観的な視点でこの時代を振り返ることができます。

極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、絞首刑となった陸軍大将、土肥原賢二の歴史的肖像写真極東国際軍事裁判でA級戦犯とされ、絞首刑となった陸軍大将、土肥原賢二の歴史的肖像写真

土肥原賢二の孫、佐伯裕子氏が語る幼少期の苦難

「『土肥原』という名字も珍しいですし、小学校の教師は私のことを知っているんですね。それで授業中に『君のおじいさんは大変なことをしちゃって、日本がこんなになっちゃったんだ』と。いじめられたということではないですが、やはり傷つきましたね。不登校になりました」

そう語るのは、A級戦犯として絞首刑に処された土肥原賢二(1883-1948)の孫である歌人、佐伯裕子氏(78)です。彼女の幼少期は、祖父の存在がもたらす周囲からの好奇の目や言葉と常に向き合うものでした。

A級戦犯土肥原賢二の孫、歌人の佐伯裕子氏の肖像。戦後の困難を乗り越えてきた表情A級戦犯土肥原賢二の孫、歌人の佐伯裕子氏の肖像。戦後の困難を乗り越えてきた表情

「謀略の東洋のローレンス」:土肥原賢二の生涯と歴史的役割

土肥原賢二は、奉天特務機関長や奉天市長などを歴任した陸軍大将です。彼は満洲国建国や華北分離工作など、数々の謀略に関与し、その手腕から「東洋のローレンス」の異名を取りました。歴史の表舞台で重要な役割を担った土肥原ら7名のA級戦犯の処刑は、昭和23年12月23日に断行されました。この日は奇しくも、当時の皇太子明仁親王(現・上皇陛下)の誕生日でもありました。

祖父への記憶:巣鴨拘置所での再会と「裕子」の名に込められた想い

佐伯裕子氏は昭和22年生まれで、祖父が巣鴨拘置所に収容されている時に生を受けました。彼女の名「裕子」は、祖父からの「女の子ならば、裕仁天皇の一字をいただいて裕子とせよ」という手紙によって名付けられたといいます。佐伯氏は、祖父に一度だけ抱っこされた記憶があると聞かされています。それは、まだ幼い赤ん坊だった彼女を抱き、「天下一の別嬪さんだ」と祖父が言ったという温かいエピソードでした。

まとめ:戦後日本の出発点としての「A級戦犯」の記憶

「A級戦犯」とされた人々の遺族が背負ってきた重い記憶は、単なる個人の物語に留まらず、戦後日本の複雑な歩みを象徴しています。批判や揶揄に耐えながら生きてきた彼らの証言は、歴史の暗部に光を当て、私たちに冷静な眼差しで過去を振り返る機会を与えてくれます。終戦80年という節目に、こうした個人的な体験を通じて、戦後日本の「出発点」を多角的に理解し、未来へとつなげることの重要性を再認識するべきでしょう。


参考文献