第二次世界大戦末期、旧日本軍が航空機による体当たり攻撃「特攻」を実施し、4000人以上が犠牲となった。その中で、1944年12月、陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍」に搭乗し、「菊水特攻隊」として出撃しながらも生還し、後に米軍捕虜となった中村真氏。彼の壮絶な体験は、戸津井康之氏の著書『生還特攻』に詳細に記されている。本稿では、その貴重な証言に基づき、中村氏が直面した死闘の空中戦と、その後の予期せぬ運命の転換点に迫る。
絶望の空中戦:重爆撃機「呑龍」の被弾と海への墜落
敵戦闘機P-47の執拗な追撃が続く中、護衛のない重爆撃機「呑龍」は次々と銃弾を浴び、撃墜されていった。中村氏が搭乗する2番機が編隊で最後の1機となる絶望的な状況。中村氏は旋回や急降下で敵の射撃をかわし続けたが、ついに左エンジンが被弾し停止。右エンジンのみの片肺飛行で必死に耐えたものの、限界だった。左旋回もままならず、機体は高度を下げ、海面すれすれを飛び続ける。
被弾し火を噴きながら降下する陸軍一〇〇式重爆撃機「呑龍」の中村真による手描きイラスト
死を覚悟した瞬間、操縦席の風防が撃ち破られ、銃弾が飛び込んできた。飛び散る破片が中村氏の身体に降りかかり、彼は操縦桿を引き上げ上昇を試みたが、右エンジンの出力は限界。耳元で爆音が炸裂し、計器盤が消し飛んだ。最後の2番機も制御不能となり海へと墜落。「このままだと海面で大爆発だ」と中村氏は最悪のシナリオを覚悟した。
奇跡の不時着から抗日ゲリラ、そして捕虜の運命へ
大爆発による最期を覚悟したが、機体は奇跡的に誘爆せず海面に浮いていた。中村氏の決死の操縦で「呑龍」を不時着させたのだ。数名の隊員が脱出し、海を泳いで機体から離れていく。機体はすぐに沈んだが、中村氏は海上の破片につかまり漂流を続けた。
しばらくして、カヌーに乗ったフィリピン人たちが接近。「オオ。トモダチ!」と片言の日本語を話す彼らに中村氏は安堵し、カヌーに引き上げてもらった。しかし、その安堵も束の間、男たちは機銃を突きつけ中村氏を縄で縛り上げた。彼らは日本軍に抵抗する抗日ゲリラだったのである。中村氏たちは捕虜として米軍に引き渡され、最終的にオーストラリアの捕虜収容所へと移送されるという、予期せぬ運命を辿った。
中村真氏の特攻隊での出撃から生還、そして予期せぬ捕虜となった壮絶な体験は、第二次世界大戦における個人の過酷な運命を浮き彫りにする。重爆撃機「呑龍」の運命が、絶望的な空中戦から奇跡的な不時着、そしてまさかの捕縛へと展開する様は、戦争の予測不能な側面と人間の生存本能、そして複雑な歴史の層を示す。中村氏の証言は、未来へ語り継ぐべき貴重な教訓である。
参考文献
戸津井康之 著『生還特攻 4人はなぜ逃げなかったのか』(光文社)