知床ヒグマ、20年の変化:世界遺産と「人馴れ」の境界線

北海道の世界自然遺産・知床半島。2005年の登録から今年7月17日で20年を迎えたこの地で、長年にわたりヒグマの行動を追ってきた記者は、ここ10年でその生態に顕著な変化を感じています。かつて人間を警戒していたはずのヒグマが、時に大胆な行動を見せるようになり、人と野生動物との距離を改めて考える時期が来ています。

長年の観察が示す知床ヒグマの変化

記者は多様な生態系に魅せられ、北海道の知床に深く関わってきました。現在の網走支局と前任地の根室支局を合わせ、10年以上にわたり知床地域を担当しています。特に知床半島先端付近の特定の場所を「定点」とし、25年前から毎年夏から秋にかけて、ヒグマや遡上(そじょう)するカラフトマスを継続的に観察してきました。

数年前までは、その場所にあった番屋に泊まり込み、故人となった番屋の主(あるじ)からヒグマの習性について多くを教わりました。最初に学んだのは、「海から陸へ風が吹いている時は、ヒグマは出てこない」という鉄則でした。これは、海岸にいる人間の匂いが山へと運ばれ、ヒグマがそれを察知して警戒し、姿を見せないという、長年の経験に基づく知恵でした。

知床半島、沢で遡上するカラフトマスを探すヒグマ。これは人の匂いを警戒していた時期のヒグマの典型的な姿を示す。知床半島、沢で遡上するカラフトマスを探すヒグマ。これは人の匂いを警戒していた時期のヒグマの典型的な姿を示す。

「マスを与えた者がいる」:学習するヒグマ

しかし、そのヒグマの行動様式に著しい変化が現れたのは、2009年の夏でした。記者が定点で観察を続けていた際、海岸で釣りをしていた男性にヒグマが鼻先を近づけるほど接近している場面を目撃しました。男性のすぐそばには、釣り上げたばかりのカラフトマスが置かれていました。

異変に気づいた番屋の主が怒鳴りながら駆け寄ると、ヒグマは男性から数メートル離れました。その隙に主はヒグマと男性の間に割って入り、ヒグマを厳しく叱りつけ、男性を逃がしました。主は悔しそうにこう言いました。「あの子にマスをやったやつがいる」。この言葉は、ヒグマが人間から食べ物を得られることをどこかで学習したことを示唆していました。

人間との距離を失うヒグマ:高まる危険性

北海道ではかつて「春グマ駆除」という政策が長らく行われていましたが、1990年に廃止されました。それから約20年が経過したこの頃には、人間を恐れないヒグマが増え始めていました。特に、人間が近づけば食べ物が手に入るということを一度学習してしまったヒグマが各地で確認されるようになっていました。

2005年に知床が世界自然遺産に登録されて以降、観光地としての人気は不動のものとなりました。それに伴い、観光客とヒグマの遭遇機会も増加。ここ10年の間に、飼い犬を連続して襲うヒグマや、人間が乗った車をかじるヒグマまで現れるようになりました。

人の乗った車のサイドミラーをかじる知床のヒグマ。これは人間に対する警戒心の低下とエサへの執着を示す行動の一例である。人の乗った車のサイドミラーをかじる知床のヒグマ。これは人間に対する警戒心の低下とエサへの執着を示す行動の一例である。

それでもなお、ヒグマを写真に収めてSNSにアップしようと過度に接近したり、車の中からお菓子などのエサを与える観光客が後を絶ちません。自然公園法は改正され、ヒグマにエサを与えたり、著しく接近する行為は違法とされました。しかし、現状ではその実効性があるとは到底言えません。このままでは、ヒグマによる人身被害が現実のものとなる日は、目前に迫っています。

結び

知床のヒグマが示す行動の変化は、人間活動が野生動物に与える影響を如実に物語っています。世界自然遺産としてその価値が認められる一方で、人間の無責任な行動がヒグマの「人馴れ」を促し、結果として人間にとっても、またヒグマ自身にとっても危険な状況を生み出しているのです。知床の豊かな自然と共存するためには、私たち一人ひとりが野生動物への敬意を持ち、適切な距離を保つ意識を改めて徹底することが不可欠です。