玉音放送録音盤、奇跡の救出劇:79年目の終戦秘話

1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾し、天皇による玉音放送で終戦が国民に告げられる歴史的な瞬間が訪れる寸前、宮城(皇居の旧称)では緊迫した事態が進行していた。陸軍中央の一部の将校たちが徹底抗戦を叫び、14日から15日にかけて近衛師団を巻き込み宮城を占拠、正午に予定されていた玉音放送の録音盤を奪取しようと画策したのである。この反乱は「宮城事件」として知られ、日本の運命を左右する重大な局面だった。

「日本のいちばん長い日」が描かなかった真実

この反乱の経緯は、これまで多くの書籍や映画で語り継がれてきた。中でも半藤一利氏(出版当時は大宅壮一・編)によるノンフィクション『日本のいちばん長い日』は特に有名であり、1967年と2015年には映画化され、そのいずれも大きな話題を呼んだ。

しかし、これらの作品を含む様々な描写が「美化されすぎている」と指摘し、54年後の1999年にその秘話を明らかにした人物がいる。それは、『次郎物語』の作者として知られる下村湖人の実子である下村覺氏だ。当時、少尉で近衛騎兵連隊旗手を務めていた下村氏は、反乱で発生した森赳中将の殺害直後の状況を目撃し、その後の展開を間近で見ていたという。「一瞬の出来事で事態が逆転して、録音盤は救われ、今日の平和を招来できたという事実を残したい」という強い意志が、長年にわたり沈黙を守ってきた下村氏に重い口を開かせた。今年、終戦から79年を迎えるにあたり、この隠された真実の一端を改めて振り返る。

1945年8月15日、玉音放送を聴くため皇居前広場に集まった大勢の人々。日本の終戦を告げる歴史的な瞬間が刻まれた場所。1945年8月15日、玉音放送を聴くため皇居前広場に集まった大勢の人々。日本の終戦を告げる歴史的な瞬間が刻まれた場所。

森赳中将殺害:反乱の最も悲劇的な側面

下村覺氏が特に語りたかったのは、反乱の一連の流れの中で最も悲劇的とされる近衛師団長殺害をめぐる事実である。反乱の首謀者は、陸軍省軍務課員の椎崎二郎中佐と畑中健二少佐、そして近衛師団参謀の石原貞吉少佐と古賀秀正少佐であった。彼らが宮城を占拠し、玉音放送の阻止を図る上で最大の難関となったのは、師団を丸ごと動かすための「師団命令」を発令する権限を持つ師団長の森赳中将を説得することだった。

森中将は「承詔必謹(=詔を承りては必ず謹め)。陛下の命のままに従うのが、近衛師団の本分である」と述べ、命令を出すことを断固として拒否し続けた。昭和史研究家の秦郁彦・日大法学部教授は、当時の惨劇の状況について次のように述べている。

「その森中将も、畑中の頼みを受けた陸軍省軍事課の井田中佐の説得で、明治神宮に参拝してから決めるとか、参謀長にも意見を聞いてくれなどと迷いだした。それで、井田が説得は成功したと思い、師団長室を出たのと入れ替わりに、畑中と航空士官学校の上原重太郎大尉、それに陸軍通信学校の窪田兼三少佐の3人がなだれ込んだのです。」

この後、森中将と、たまたまその場に居合わせた義弟である陸軍航空総監部の白石通教参謀が殺害されるという、宮城事件の中でも最も衝撃的な出来事が起こった。

隠された真実が問いかけるもの

下村覺氏が戦後54年を経て明かした森赳中将殺害の事実は、これまで語られてきた終戦秘話の「美化された部分」を剥ぎ取り、その裏に隠された生々しい悲劇を浮き彫りにする。録音盤が奇跡的に救われ、今日の平和が招来された背景には、単なる英雄的な行動だけでなく、混乱の中で起きた凄惨な事件があったことを示している。

下村氏の証言は、歴史を多角的に捉え、過去の出来事から学ぶことの重要性を改めて我々に問いかける。終戦という日本の運命を決定づけた瞬間の真実に光を当てることで、平和の尊さと、歴史の語り部としての責任を再認識させられる。

参考資料

  • 「週刊新潮」1999年9月9日号「皇居の反乱でごみ焼却炉に捨てられた近衛師団長の遺体」(再編集)
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