近衞文麿の自決:戦後80年、曾孫が語る「天皇を守るため」の真実

1945年8月15日の終戦から80年を迎える今年、GHQによる戦犯指名を受けた近衞文麿元首相の自決は、日本の戦後史に深く刻まれています。日中戦争から太平洋戦争開戦前夜まで、三度にわたり内閣を率いた彼の最期について、直系の曾孫である近衞忠大氏がインタビューで語った「近衞家の戦後」に迫ります。

「天皇陛下をお守りするため」の自決

近衞忠大氏は、「曾祖父である近衞文麿が東京裁判に出ることを拒み自決したのは、『天皇陛下をお守りするためだ』と両親から聞かされました」と明かしています。この言葉は、「近くを衛る」という意味を持つ「近衞」という名字が象徴する、天皇家への深い奉仕と責任を現代に伝えています。

GHQからの出頭命令を受け、1945年12月16日未明に自邸で命を絶った近衞文麿の行動は、単なる逃避ではなく、彼なりの「守る」という意思表示であったと家族は捉えています。その決断の背後には、当時の激動する国際情勢と国内の複雑な政治状況、そして歴史ある近衞家としての重責があったことが伺えます。

第二次世界大戦前の日本を率いた近衞文麿元首相第二次世界大戦前の日本を率いた近衞文麿元首相

泥沼の戦争へと導いた指導者としての評価

45歳で初めて首相の座に就いた近衞文麿は、日中戦争の泥沼化から太平洋戦争開戦直前までの重要な時期に、日本の政治を三度にわたって牽引しました。その経歴から、彼は「泥沼の戦争に導いた指導者」として、日本の歴史に深くその名を刻んでいます。

激動の時代において、彼の外交的、内政的決断が日本の運命を大きく左右したことは否定できません。彼のリーダーシップの下で、日本は国際社会から孤立を深め、最終的に破滅的な戦争へと突き進んでいきました。この評価は、戦後も長く議論の対象となっています。

近衞文麿の面影を受け継ぐ曾孫、近衞忠大氏近衞文麿の面影を受け継ぐ曾孫、近衞忠大氏

1400年続く名門「近衞家」が背負う十字架

関白藤原道長を源流とする「近衞家」は、五摂家筆頭、さらには明治時代以降の華族最上位である公爵家として、1400年もの長きにわたり日本の歴史を支えてきた名門です。彼らは古くから天皇家と深い関係を築き、その存続に尽力してきました。

しかし、戦後、特に曾祖父文麿の戦争責任を巡る評価により、この名門は国民からの好意的ではない視線と、歴史的な「十字架」を背負うこととなりました。曾孫である近衞忠大氏もまた、その重責を担い続けながら、近衞家の戦後を語り継ぐ役割を担っています。

結び

近衞文麿の自決は、単なる個人の悲劇に留まらず、激動の時代における政治的責任と、天皇制、そして名門近衞家の運命が複雑に絡み合った歴史的事件です。終戦から80年を経て語られる家族の証言は、歴史の多角的な理解を深める貴重な視点を提供し、私たちが過去から学ぶことの重要性を改めて問いかけています。

出典

「週刊新潮」2025年8月14・21日号掲載【一族が目撃した自決前夜――「近衞文麿」曾孫の独白】抜粋・編集
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