人手不足が深刻化し、優秀な人材の確保が企業にとって喫緊の課題となっています。これに対応するため、多くの企業が「賃上げ」に踏み切っていますが、限られた予算の中で人的資本への投資効果を最大化することが求められています。このような背景から、給与体系の見直しが喫緊の課題となり、具体的な施策の一つとして「賞与の給与化」、すなわちボーナスの一部または全額を月々の給与に組み込む動きが注目を集めています。実際に、ソニーグループやバンダイといった大手企業がこの制度を導入し、大きな話題となりました。
本稿では、日本の会社員が月給を重視する背景に触れながら、企業が賞与の給与化を実施した場合のメリットとデメリット、さらには潜在的な「落とし穴」について、具体的な事例を交えながら深く掘り下げて解説します。
日本企業と月給重視の文化:安定志向と生活設計
日本の会社員、特に正社員は、月々の安定した給与を重視する傾向が強いです。これは、住宅ローンや子どもの教育費、日々の生活費といった固定費を毎月の給与で賄う生活設計が一般的であるためです。賞与は「臨時収入」という認識が強く、貯蓄や大型出費、またはレジャーに充てられることが多い一方で、生活の基盤となるのはあくまで月給です。そのため、月給が安定していれば経済的な安心感が得られやすいという心理が働きます。企業側も、この従業員の「安定志向」を理解し、給与体系を検討する必要があります。
「賞与の給与化」が企業にもたらすメリット
賞与の給与化は、企業にとって複数のメリットをもたらす可能性があります。
1. 採用競争力の強化と人材確保
月額の基本給が高くなることで、求職者にとって提示される年収が分かりやすくなり、転職市場での魅力が増します。特に、若年層や中途採用者にとっては、入社直後から安定した高水準の月給は大きなインセンティブとなり、優秀な人材の獲得競争において優位に立てる可能性があります。
2. 人件費の平準化と資金繰りの安定
賞与は年に数回、まとまった額を支給する必要があるため、企業の資金繰りに一時的な負担をかけることがあります。賞与を給与化することで、人件費支出が年間を通じて平準化され、資金繰りの予測可能性が高まり、安定した経営基盤の構築に寄与します。
3. 給与計算・管理の簡素化
賞与の計算には、個人の業績評価や会社の業績変動を反映させるため、複雑な計算プロセスや評価システムが必要となる場合があります。これを月給に組み込むことで、給与計算や人事評価プロセスの簡素化が図れ、管理コストの削減につながる可能性があります。
「賞与の給与化」に潜むデメリットと従業員のリアルな声
一方で、賞与の給与化には企業と従業員双方にとって見過ごせないデメリットが存在します。特に、従業員のモチベーション低下は深刻な問題となり得ます。
1. 従業員のモチベーション低下と士気の喪失
多くの従業員にとって、賞与は日々の業務への努力や成果が報われる「ご褒美」であり、モチベーション維持の重要な要素です。これが月給に吸収されると、手取りが増えたとしても「まとまった臨時収入」という感覚がなくなり、「生活費の一部」と認識されるようになります。結果として、達成感や士気が低下し、仕事への意欲が減退する可能性があります。
2. 柔軟な人件費調整機能の喪失
賞与は企業の業績と連動させやすく、業績が悪い年には支給額を抑えることで人件費を調整する機能があります。しかし、月給に組み込むと固定費化するため、景気変動や業績悪化時に人件費を削減するのが難しくなり、企業の経営戦略上の柔軟性が失われる恐れがあります。
3. 社会保険料や税金への影響
月給が増加することで、健康保険や厚生年金保険などの社会保険料の負担が増える可能性があります。また、所得税や住民税も月々の給与から源泉徴収される額が増えるため、見かけ上の手取りが増えても、全体的な可処分所得に大きな変化がない、あるいはむしろ減ると感じる従業員も出てくるかもしれません。
【事例】給料が増えてもボーナス半減で、現場のモチベーションはダダ下がり
都内にある機械メーカーで、従業員数が200人のX社は、2024年4月に社員1人当たり平均で5%以上の賃上げを実行しました。昨今の経済情勢の中で、今後も賃上げが必要だと考えた社長以下経営陣は、その資金を確保する目的もあり、夏・冬と原則年2回、2カ月分を支給していた賞与をいずれも原則1カ月分支給へと変更することにしました。
1月の集会で、社長が全社員への説明を行い、全員に詳細な内容の文書も配布しています。月給も年収も増えるということで、その時点で特に反対意見はなく、就業規則の変更も無事に済ませたのですが……。
7月中旬、Aさん(管理課勤務の30歳)は「今日はボーナスの日だ」と朝からウキウキしていました。旅行が趣味のAさんは、ボーナスを当て込んで夏休みに海外旅行を予約しています。ところが、賞与明細を確認したところ、目に飛び込んできたのは……。
Aさん: 「えっ? 何これ!」
B課長(48歳。管理課長でAさんの上司): 「いきなりそんな大声出してどうした?」
Aさん: 「課長、見てください。僕のボーナス、去年の冬よりめちゃくちゃ減ってます」
B課長はAさんのスマホの画面をのぞき込みました。
B課長: 「あーそれね。社長が集会で話してたことだよ」
Aさん: 「すっかり忘れてた。困ったなあ。自分の基本給は28万円だから、額面で56万円もらえると思って、タイ旅行の予約をしちゃいました」
B課長: 「君は遊びに使えるからまだいいよ。ウチなんか住宅ローンの返済に子ども2人の学費の支払いもあるし……。去年は額面で90万円だったボーナスが45万円だなんて、全然足りない。確かに給料は上がったけど、生活が楽になった実感なんてないよ」
二人が周りを見ると、みんな賞与明細を見てため息をついています。中には「わーっ、本当にダダ下がり!」などと冗談交じりに騒ぐメンバーもいました。
夕方所用で管理課を訪れたC総務部長(50歳。会社の人事・総務担当責任者)は、部署の雰囲気がいつもと違うことに気付きました。
C部長: 「あれ?みんないつもより元気がないみたいだけど」
B課長: 「原因はボーナスですよ。いきなり半分になっちゃったからみんながっくりきてるってわけです。私もどうも仕事のやる気がでなくて」
C部長: 「そうか、よほどボーナスを楽しみにしていたんだな。事前に周知して反論がなかったので、納得してくれたと思っていたのに違ったようだ。この調子じゃ、モチベーションの低下が心配だ」
日本の企業が検討する賞与の給与化によるメリットとデメリット。従業員のモチベーション維持が鍵。
この事例が示すように、事前に十分な説明と従業員の納得を得ることがいかに重要であるかが浮き彫りになります。単に賃上げを告知するだけでなく、その背景にある意図や、月給化によって何がどう変わるのかを具体的に、かつ長期的な視点で伝える努力が不可欠です。
成果を最大化する「給与体系の再構築」:賞与と月給の最適なバランスとは
賞与の給与化は、単なる給与額の変更ではなく、企業の文化や従業員の働きがい、モチベーションに深く関わる重要な人事戦略です。その導入に際しては、以下のような点を慎重に検討し、単なる額面の調整に終わらない「給与体系の再構築」を目指すべきです。
- 透明性の確保と丁寧なコミュニケーション: 変更の目的、メリット・デメリット、従業員への影響について、時間をかけて丁寧に説明し、疑問や不安を解消するための対話の場を設けることが不可欠です。
- 従業員インセンティブの再設計: 賞与が担っていた「成果への報奨」という役割を、別の形で担保する必要があります。例えば、目標達成に応じた特別手当や、四半期ごとのインセンティブ制度の導入、非金銭的な表彰制度の充実などが考えられます。
- 企業の特性と業界慣習の考慮: 業界や企業の規模、成長ステージによって最適な給与体系は異なります。自社のビジネスモデルや従業員の属性に合わせた柔軟な設計が求められます。
結論:賞与の給与化は「諸刃の剣」である
賞与の給与化は、人手不足時代における企業の人材戦略として魅力的な側面を持つ一方で、従業員のモチベーション低下という大きなリスクをはらむ「諸刃の剣」です。月給の安定は魅力的ですが、ボーナスがもたらす「特別感」や「達成感」を軽視することはできません。
重要なのは、単にコスト面や採用競争力向上だけを追求するのではなく、従業員が「この会社で働き続けたい」と思えるような、納得感と公平性のある給与体系を構築することです。そのためには、月給と賞与の最適なバランスを模索し、変化に伴う従業員の心理的影響を最小限に抑えるための綿密な計画と丁寧な実行が、日本企業にとって不可欠な課題となるでしょう。