今年、結党70年を迎える自民党は、その歴史の大半を政権与党として歩んできました。しかし現在、衆参両院で過半数を割り込み、党内には深い亀裂が走っています。なぜ今、自民党はこのような危機に瀕しているのでしょうか。衆議院議員を2期務めた豊田真由子さん(50)が、自身の経験を通して見た「超・男社会」な自民党の実像を明かします。この視点は、今日の自民党が抱える根本的な問題の一端を浮き彫りにするでしょう。
元衆議院議員の豊田真由子氏、自民党のジェンダー問題について語る
官僚から政治家へ:自民党を志した背景
豊田さんはもともと厚生労働省の官僚でした。2007年には在ジュネーブ国際機関日本政府代表部に派遣され、2011年に厚労省に戻った際、2009年の衆院選で自民党が下野し、民主党政権になっていたことに「浦島太郎的」な衝撃を受けました。政権運営には実務経験が不可欠であり、当時の政と官の不信感、官僚たちの疲弊、そして東日本大震災への政府の後手後手の対応に強い危機感を抱いたといいます。このままでは日本がダメになるとの思いから、政も官も国民のためにベストを尽くせる政治を実現するため、政治の世界へ飛び込むことを決意しました。
「地盤看板なし」での挑戦:逆境を乗り越えた初当選
自民党の公募で埼玉県内の選挙区に応募した豊田さん。当時2歳と4歳の子供を抱えながらも政治活動が可能かと考えた埼玉4区は、実は民主党王国の中でも“総本山”と称される激戦区でした。自民党の組織は壊滅状態に近く、候補者決定も難航していた場所です。
公募合格後、豊田さんを待っていたのは地元政界の「おじさんたち」による壮絶な「いびり」でした。有力者を差し置いて、後ろ盾もない「落下傘候補」の若い女性が公認を得たことへの反発は想像を絶するものだったようです。首長や地方議員からは無視され、ある有力者からは「応援してもらいたかったら金持ってこいや」とまで言われたといいます。丁重に断ると、支部からの支援は得られず、嫌がらせが続きました。
地元の支援も事務所もスタッフもゼロ。完全な泡沫候補として、たった一人からのスタートでした。しかし、毎朝の駅立ち、一軒一軒の戸別訪問、そして崖やフェンスによじ登りながら約2千枚ものポスターを自力で貼る「ど根性」で活動を続けました。こうした努力は「あのピンクのポスターを貼っているのは本人じゃない?」と地元で話題を呼び、自民党の関係者を含む協力者や応援してくれる人が日増しに増え、見事当選を果たすことができました。
自民党内の「本音」:女性議員が見たジェンダーの実情
女性候補であることは、一般的に印象が良いとされるメリットがある一方で、デメリットも存在したと豊田さんは語ります。女性であるという理由で軽んじられたり、あるいは男性有権者から抱きつかれるといった、いわゆる「票ハラ」も当然経験しました。しかし、国民のための政治実現という大義のためには我慢しなければならないと考えていたそうです。
当選後、女性議員として自民党本部に抱いたのは「女なんかに政治ができるか」「女はわきまえていろ」といった「本音」が根強くあるという強い実感でした。党大会などで集合写真を撮る際に「女性陣、総裁を囲んで」という号令がかかるのは、女性が「添え物」として見られている象徴的な場面だと指摘します。
政界に入った女性議員たちは、そこで生きていくためにどう振る舞うべきかを瞬時に悟ります。仕事では一生懸命に成果を出しつつも、決して男性を脅かすことなく「女性らしさ」も求められる。自分に何が求められているのかを敏感に感じ取り、それに対応しようと努めていたと、豊田さんは振り返ります。
結論
元衆議院議員の豊田真由子氏が語る自民党の内情は、その「超・男社会」としての側面を浮き彫りにしました。政権運営への危機感から政界入りを果たし、地盤も看板もない中で壮絶な努力によって当選を掴み取った彼女が目の当たりにしたのは、党内に根強く残るジェンダーギャップでした。自民党が結党70年を迎え、現在の危機的状況を乗り越えるためには、こうした「本音」と向き合い、多様な視点を取り入れることが不可欠なのかもしれません。