人生は甘くない、と諭され、幾つもの夢や野心を溶かしてきた。理想を追うよりもはるかに早く現実が迫り、あっという間に飲み込まれてしまう。目指していた場所とはかけ離れたところに辿り着くことも少なくない。人生は確かに苦い。その苦ささえ楽しめるのが大人なのだろうが、時にはひどく疲弊することもある。公私ともに様々な出来事が重なり心底疲弊していた日、追い打ちをかけるように税金の納付書が届き、深く打ちのめされた私は「まともに生きてなんていられっかよ」と、すっかり自暴自棄になっていた。
そんな精神状態だったからこそ、次に訪れる取材先には一抹の希望を抱かずにはいられなかった。辿り着いたのは文京区に位置する本郷三丁目駅。その改札からわずか徒歩1分の場所に、「名曲・珈琲 麦」という魅力的な響きを持つ喫茶店がある。この「名曲喫茶」という言葉自体が、「あなたは客だが、決して主役ではない」と毅然とした態度を示しているかのようだ。今は誰にも干渉されず、一人で荒んだ心を立て直し、あるいはそこから立ち直りたい気分だったため、名曲喫茶こそがうってつけだと予想した。
学問の街に息づく、時を刻む喫茶店「麦」
本郷三丁目といえば、東京大学の赤門を擁する学問の街として知られる。知的な雰囲気が漂うこの一角に、「名曲・珈琲 麦」は静かに佇んでいた。重厚な扉を開け、細い階段を下りていくと、店内は右手と左手に分かれる。右が禁煙席、左が喫煙席だ。私は煙草を吸わないにもかかわらず、他人の吸う煙草の匂いを好むという、いかにも早死にしそうな奇妙な癖がある。その無言の言い訳を胸に、迷わず喫煙エリアへと足を踏み入れた。
五感を満たすレトロな空間とクラシックの響き
午後3時、店内はほぼ満席で賑わっていた。床やソファは、長年の使用によってところどころ布が破れた深みのあるえんじ色に染まっている。壁には大きな絵画が飾られ、耳には「我こそが主役」と言わんばかりの音量でクラシック音楽が鳴り響く。階段の脇には新聞や雑誌、CDがぎっしりと収められた棚が並び、ここが時を忘れるための空間であることを物語っていた。
一通り店内を見渡し、勝手に満足した私は、空いている椅子に腰掛けた。しかし、想像以上に座面が深く凹んでおり、慌てて立ち上がると、どうやらその椅子だけが壊れているようだった。「まさかドッキリか?」と周囲を見回したが、誰も私を見ていない。久しぶりに新聞を開いたり閉じたりする紙の擦れる「カシャカシャ」という音を聞き、ようやく落ち着きを取り戻す。
隣の椅子に座り直すと、こちらはクッションがまだ生きており、私の体を優しく包み込むように受け止めてくれた。安堵したところで、樹木希林を四捨五入したような雰囲気の婦人が、メニューとおしぼり、水を運んできてくれた。そこで気づいたのだが、私以外の客は皆、白髪の年配者ばかりだ。まるでそれがこの店のドレスコードであるかのように。店内にはモーツァルトの調べが流れている。
名曲喫茶には私語厳禁の店もあると聞くが、「麦」ではある程度の会話は許されているようだった。二人組の客も見受けられ、音楽に耳を傾けたり、あるいは競馬の話や政治の話に興じたりしている。
苦味と甘みが織りなす「人生のプリン」
メニューを手に取ると、珈琲が300円という驚きの価格で提供されていた。あまりの安さに申し訳なくなり、思わずプリンも注文してしまう。もしかすると、このプリンも頼ませるための価格設定なのかもしれない。
運ばれてきたプリンには、生クリームと真っ赤なサクランボが添えられていた。その見た目は、誰もが懐かしさを覚える昔ながらの喫茶店のプリンそのものだ。一口食べると、想像の何倍も甘くない。控えめどころか、むしろ苦さすら感じるほどの味わいに驚かされた。
「単体では苦すぎる」と感じ、横に添えられた生クリームと一緒に口に運んだ。すると、まるで「元からこうやって食べるものです」と自己紹介するかのように、絶妙な甘みが口いっぱいに広がった。
これは、人生そのものだ。ときに苦くとも、誰かと混ざり合うことで甘く、豊かな味わいへと変わっていく。そんな教訓めいたことを思いながらプリンを完食し、再び名も知らぬ名曲が静かに、しかし大きく鳴り響く空間に耳を澄ませた。
本郷三丁目「名曲・珈琲 麦」で提供される、生クリームとサクランボが添えられた昔ながらのプリン
本郷三丁目の「名曲・珈琲 麦」での時間は、単なる喫茶店巡りを超えた、深く心に残る体験となった。人生の苦さを噛み締め、一人疲弊していた私に、あのプリンは、他者との調和によって生まれる甘美な瞬間を教えてくれた。クラシック音楽が満たすレトロな空間で、過去と現在、そして人生の奥深さに思いを馳せる。名曲喫茶「麦」は、都会の喧騒から逃れ、静かに自己と向き合いたい人々にとって、まさに理想的な隠れ家と言えるだろう。
文/カツセマサヒコ 挿絵/小指
著者プロフィール
【カツセマサヒコ】
1986年、東京都生まれの小説家。『明け方の若者たち』(幻冬舎)でデビュー。その他著書に『夜行秘密』(双葉社)、『ブルーマリッジ』(新潮社)、『わたしたちは、海』(光文社)などがある。
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