国民的アニメ「アンパンマン」の生みの親、やなせたかし氏は、まだ世に知られる前の若き日から、永六輔、宮城まり子、いずみ・たくといった数々の著名な才能たちから仕事の依頼を受けていました。しかし、そのキャリアにおいて最も衝撃的かつ重要な転機となったのは、漫画の神様・手塚治虫氏からの突然の電話でした。当時、アニメーション制作に関する知識が皆無であったやなせ氏が、いかにして手塚氏の大作アニメ映画『千夜一夜物語』の重要な役割を担うことになったのか、その知られざる舞台裏に迫ります。
漫画の神様からの突然の依頼:『千夜一夜物語』キャラクターデザインの舞台裏
1960年代後半、やなせ氏の元に手塚治虫氏から一本の電話がかかってきます。長編アニメーション映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインと美術監督という、やなせ氏にとって未経験の職務の依頼でした。「売り込みもしていないのに、突然やったこともない仕事を依頼されて面喰う」(『アンパンマンの遺書』より)と、やなせ氏自身が後に語る通り、この依頼はまさに青天の霹靂でした。
当初、手塚氏のいたずらだと思ったやなせ氏も、後日虫プロダクションのプロデューサーからの電話で、それが冗談ではないと知らされます。当時、手塚氏は『鉄腕アトム』『火の鳥』など数々のヒット作を手がけ、自身の虫プロでテレビアニメも制作する、まさに「住む世界が違う」存在。やなせ氏は、本格的なアニメーション制作への参加はこれが初めてであり、戸惑いを隠せませんでした。
電話で仕事依頼を受け驚くやなせたかし氏(右)と手塚治虫氏(左)のツーショット。アニメ『千夜一夜物語』での協業の始まり
『千夜一夜物語』は、手塚氏が巨額の資金を投じ、世界市場を視野に入れて制作した大人向けアニメーション映画でした。虫プロのスタッフだけでも250人中180人が関わり、外部のスタジオも動員して合計800人ものクリエイターが制作に参加した、まさに一大プロジェクトです。
アニメ制作ゼロからの挑戦:やなせたかしの「美術」への貢献
映画制作に関する知識もアニメーションの経験もゼロだったやなせ氏。監督の山本暎一氏に「ではイメージボードでも描いていただけますか」「はあ? イメージボードって何ですか」と返し、呆れられたエピソードも残されています。しかし、やなせ氏は現場に足繁く通い、シナリオを読み込み、絵コンテを何枚も描いてボードに貼り付けるなど、映画作りの基本から猛烈に学びました。
アニメの知識が皆無だったやなせたかし氏に、長編アニメ『千夜一夜物語』への参加を依頼する手塚治虫氏
完成した映画のタイトルロールには、「総指揮 手塚治虫」に続き、「美術 やなせたかし 音楽 冨田勲」と、主要スタッフとして非常に大きくクレジットされています。このことから、アニメ未経験だったやなせ氏が、いかにこの大作において重要な役割を果たしたかが伺えます。この『千夜一夜物語』への参加は、やなせ氏にとってキャリア上の大きなステップアップとなり、後の創作活動にも多大な影響を与えることになりました。
才能が交錯する奇跡:やなせたかしの新たな境地
手塚治虫氏からの予期せぬ依頼がきっかけで、アニメーションという新たな表現の世界に足を踏み入れたやなせたかし氏。未知の分野への挑戦は、彼の中に眠っていた「とんでもない才能」を引き出す機会となりました。アニメ制作に関する経験が皆無の状態から、大作映画の「美術」として深く関わり、その功績がタイトルロールにも刻まれたことは、やなせ氏の稀有な才能と探求心を象徴するエピソードと言えるでしょう。この異色のコラボレーションは、やなせ氏のキャリアにおける重要な転換点であり、彼の才能が新たな境地へと開花した瞬間でした。
参考文献
- やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波書店、1995年)
- 柳瀬博一『アンパンマンと日本人』(新潮新書)
- Yahoo!ニュース記事
- デイリー新潮記事