NHK連続テレビ小説『あんぱん』は、日本中に愛されるキャラクター「アンパンマン」の生みの親、やなせたかしとその妻・のぶの生涯を描いています。物語は、主人公・嵩(やなせたかしがモデル、演:北村匠海)とその周囲のクリエイターたちの交流を通じて、戦後の日本の文化が花開く様子を映し出しています。特に注目されるのは、嵩のモデルであるやなせたかしと、物語に登場する蘭子(河合優実)のモデルとされる向田邦子との、史実に基づいた深い関係性です。この二人の知られざる交友は、日本のエンターテイメント史において重要な意味を持ちます。
蘭子と嵩、史実が示すやなせ・向田の深いつながり
ドラマ『あんぱん』で蘭子が映画雑誌のライターとして登場する姿は、史実でやなせたかしが映画評論家として活躍していた事実に重なります。彼は『映画芸術』や『映画ストーリー』といった雑誌で映画評を執筆していました。特に『映画ストーリー』では、後の昭和ドラマ界を代表する脚本家となる向田邦子が編集者として働いており、蘭子の人物設定にはやなせと向田邦子の要素が巧みに織り交ぜられていることがうかがえます。
史実において、『映画ストーリー』が廃刊になった後、向田邦子は脚本家への道を歩み始めます。やなせたかしは、自身が脚本を依頼されていたドラマ『ハローCQ』において、向田邦子を推薦し、彼女が2本の脚本を手がけるきっかけを作りました。この時、やなせは向田の脚本に手を加えた経験を「冷や汗もの」と著書で振り返っています。
さらに、向田邦子の名エッセイ『父の詫び状』が出版された際には、やなせたかしが挿絵を担当するという形で二人の交友は続きました。しかし、向田が直木賞を受賞し時代の寵児となるにつれ、やなせは気後れからか逢う機会が減っていきます。そして、作家として絶頂期にあった向田は、不運な飛行機事故により若くしてこの世を去りました。やなせたかしは自伝『アンパンマンの遺書』の中で、向田邦子の突然の死が「自分の中でひとつの準備がはじまっているような気がした」と記しており、それは彼自身のクリエイターとしての新たなスタートを意味していたと言えるでしょう。
朝ドラ「あんぱん」の蘭子(河合優実)と嵩(北村匠海)の場面写真。物語の深層にやなせたかしと向田邦子の関係が描かれていることを示唆。
嵩の飛躍:手嶌治虫との協業、そして『アンパンマン』への道
『あんぱん』第23週「僕らは無力だけれど」(演出:柳川強)では、物語の大きな転換点が描かれました。手塚治虫をモデルにした手嶌治虫(眞栄田郷敦)が、嵩にアニメ映画『千夜一夜物語』のキャラクターデザインを依頼し、二人は固く手を握り合います。これまで漫画家として手嶌に遅れを取っているというコンプレックスを抱えていた嵩でしたが、渾身の作品『ボオ氏』で週刊誌の漫画大賞を受賞し、自信をつけ始めていました。この協業と受賞は、嵩がその才能をさらに開花させ、『アンパンマン』へと至る道のりの重要な一歩となるでしょう。
ドラマでは、手塚治虫、いずみたく、永六輔、サンリオの辻信太郎といった、史実の著名なクリエイターたちがモデルとなった人物が続々と登場します。やなせたかしの著書を紐解けば、彼の周囲にはまさに綺羅星のごとき才能が集い、互いに刺激し合い、切磋琢磨しながら新しい文化を創造していた様子がうかがえます。漫画、音楽、演劇など、多岐にわたる分野のクリエイターたちが、1960年代から1970年代にかけて日本の文化を豊かにしていった時代背景が、『あんぱん』の物語の根底には流れています。
向田邦子が『あんぱん』に登場しなかった背景
やなせたかしの自伝『アンパンマンの遺書』において、向田邦子は非常に重要な存在として描かれているにもかかわらず、『あんぱん』で彼女が直接的に登場しなかったことには、複数の理由が考えられます。一つには、ドラマが主に嵩を支えた妻・のぶ(今田美桜)の物語に焦点を当てているため、嵩の周辺のキャラクターを増やしすぎないよう配慮されたのかもしれません。向田邦子という、あまりにも大きな存在を物語に加えることで、中心となる夫婦の物語が薄まってしまう可能性があったと考えられます。
それでもなお、向田邦子という存在が日本のテレビドラマ界において絶大な影響力を持つためか(かつてテレビ局のプロデューサーやディレクターが影響を受けたドラマとして山田太一作品と並んで向田邦子作品を挙げる声が多かったことからもその影響は明らかです)、ドラマ『あんぱん』の朝田家には彼女の息吹が随所に感じられます。直接登場せずとも、その存在感と影響は物語の背景に深く根差していると言えるでしょう。
『あんぱん』は単なる伝記ドラマに留まらず、やなせたかしを取り巻くクリエイターたちの群像劇として、日本の現代史における文化の変遷を描き出しています。史実とフィクションが織りなす中で、視聴者は新たな発見と感動を得られることでしょう。
参考文献:
- Yahoo!ニュース: https://news.yahoo.co.jp/articles/80b2af1458ef0ec772749f30a3ceeaaa4930606d
- やなせたかし著『アンパンマンの遺書』 (フレーベル館 刊)
- 向田邦子著『父の詫び状』 (文藝春秋 刊)