北朝鮮スパイ、日本を対韓工作の拠点に:昭和の激動と警察の攻防

北朝鮮にとって、日本は長年にわたり「特殊工作の舞台」として格好の場所でした。スパイ防止法が存在せず、言葉や生活習慣の問題をクリアできれば、日本の社会に紛れ込んで活動することは比較的容易だったからです。しかし、日本に潜入した北朝鮮スパイたちを待ち受けていた運命はどのようなものだったのでしょうか。そして、彼らと水面下で対峙し続けた日本警察との壮絶な闘いの実態とは。本記事では、昭和の激動期に繰り広げられた、日本を舞台とする北朝鮮の対韓スパイ工作とその摘発の歴史をひも解きます。

日本が北朝鮮の「特殊工作の舞台」となった背景

冷戦下の昭和時代、日本は地政学的な位置と法制度の特殊性から、北朝鮮にとって格好の活動拠点となっていました。特に、スパイ活動を直接取り締まる法律がないことは、工作員にとって大きなメリットでした。彼らは日本を中継点とすることで、合法的な貿易を装いながら物資を調達し、情報収集を行うことができたのです。また、言葉や文化の壁を乗り越えれば、都市部に溶け込み、長期的な潜伏活動を行うことも困難ではありませんでした。このような背景が、日本を北朝鮮の対韓工作、ひいては対日工作の主要な舞台へと押し上げました。

1968年、対韓スパイ補助工作事件の全貌

昭和43年(1968年)2月10日の朝日新聞(夕刊)は、「日本を舞台に対韓スパイ」という見出しで、当時の衝撃的な事件を報じました。兵庫県警外事課が捜査していたのは、韓国人6名、日本人2名からなるグループが、日本を拠点に北朝鮮のための組織的なスパイ補助工作を行っていた事案です。捜査により、このグループが北朝鮮の情報将校から指導を受け、対韓スパイ用の物品収集を任務としていたことが明らかになりました。

この工作グループは、連絡係、収集係、運搬係など役割が完全に組織化されており、戦後、これほどまでに組織的な北朝鮮の対韓スパイ補助工作員が摘発されたのは初めてのことと、兵庫県警は発表しました。彼らの活動は昭和39年(1964年)末から摘発された昭和43年まで続き、日本の国家安全保障を脅かすものでした。

北朝鮮工作員による日本での潜入工作活動のイメージ北朝鮮工作員による日本での潜入工作活動のイメージ

密輸された「スパイ用品」とその意図

このグループが北朝鮮に密輸出したとされる「スパイ用品」は多岐にわたります。これまでに判明しているのは、韓国通貨392万5000ウォン(当時の日本円で約510万円)、日本円350万円、そして韓国の観光映画21巻です。これらの物品は、北朝鮮が韓国への潜入工作に使う工作員を支援するためのものでした。特に観光映画は、韓国国内の情勢を学ばせる目的で、ゲリラ部隊に見せるために収集されていたとされます。

さらに、グループは北朝鮮側から以下のような物品の収集を指示されていました。

  • 韓国の道民証(住民登録証)
  • 韓国の男女の四季の衣服
  • 韓国軍服
  • 階級章
  • 特務隊証明書
  • 鉄道服
  • 警察の制服
  • 警察手帳

中でも北朝鮮側は韓国軍服を非常に強く求め、摘発される前の年末頃からは容疑者に対し「軍服が手に入ったら、それだけでも良いから運んでこい」と矢のように催促していたといいます。兵庫県警の捜査では、実際に韓国軍服が密輸出された事実は確認されていませんが、周辺捜査でグループメンバーが韓国軍服を所持していたことが判明しており、何らかの入手ルートがあった可能性が高いとみられています。

日本が選ばれた二つの理由:安全な中継地

兵庫県警外事課は、日本が北朝鮮の対韓工作の舞台として選ばれた主な理由として、以下の二点を挙げています。

  1. 安全な中継地としての機能: 日本を中継点とすることで、表向きは合法的な貿易活動を装うことができ、工作員にとって安全な物品の調達・運搬ルートを確保できました。
  2. スパイ関連法規の不在: 日本には当時、スパイ犯罪を直接取り締まる法律がなかったため、工作員が逮捕される危険性が低いと判断されました。これは、工作活動を行う上で非常に有利な条件でした。

監視の裏側:もう一つの北朝鮮スパイ組織の影

主犯格の供述によると、日本では常に誰かに監視されている感覚があったといいます。この証言に対し、兵庫県警は、摘発された工作グループをさらに監視する、別の北朝鮮スパイ組織が存在した可能性を指摘しています。これは、北朝鮮が工作員の活動を徹底的に管理し、複数のネットワークを構築して任務の確実性を高めていたことを示唆しており、当時の日本における北朝鮮スパイ活動の複雑さと深度を物語っています。

結論

昭和の激動期に日本を舞台に繰り広げられた北朝鮮の対韓スパイ工作は、日本の国家安全保障に対する脅威の一端を浮き彫りにしました。スパイ防止法がないという日本の脆弱性が利用され、巧妙かつ組織的な活動が展開されていた事実は、国内外の情勢が緊迫する現代においても、情報機関の役割と国際的な警戒の重要性を再認識させるものです。この歴史的な事件は、見えない場所で常に続けられてきた情報戦の存在と、それに立ち向かう警察の地道な努力を私たちに伝えています。

参考文献