15世紀、室町時代の京都では経済が著しく発展し、社会のあらゆる階層で活発な金銭貸借が行われていました。当時の利子は月4〜8パーセントと変動しており、現代の感覚からすると非常に高利、いわゆる「暴利」と呼べる水準でした。名古屋市立大学大学院の川戸貴史教授は、この時代の金融活動が京都の経済発展を根底から支えていたと指摘します。現金主義の限界から生まれた為替手形、そして専門の金融業者「借上」「土倉」の台頭は、当時の社会経済構造を大きく変える原動力となったのです。
貨幣経済の発展と為替手形の誕生
経済の発展に伴い、商品と貨幣が大量に行き交うようになると、当時の主流であった銅銭(銭貨)のみでは遠隔地間や高額な取引の際に不便さが顕著になりました。このような現金主義の限界を克服するため、13世紀半ば頃から取引現場での現金決済を省略する手段として「為替手形」が普及し始めます。当初は簡単な送金機能を果たすものに過ぎませんでしたが、時代が下るにつれて利息付きの借金手形も登場し、資金の前借りにも利用されるようになりました(百瀬今朝雄「利息附替銭に関する一考察」)。
これらの為替手形は京都をはじめ各地の都市商人が発行していましたが、やがて資金の貸し付けを専門とする金融業者も為替の発行に乗り出します。その用途は商業取引に留まらず、年貢を銭貨で納める「代銭納」の手段や、鎌倉幕府の御家人が離れた一族へ送金する際にも用いられました。為替には米建ての「替米」と銭建ての「替銭」の二種類が存在し、それぞれのニーズに応じて利用されました。
室町時代の高利貸しと金銭取引の様子を示す『山王霊験記』の挿絵
京都を席巻した金融業者「借上」と「土倉」の台頭
13世紀以降、京都は求心的な流通構造によって消費が拡大し、経済発展を遂げました。これに伴い、金銭の貸借による資金融通も活発化し、これを専門に扱う金融業者が急速に増加します。当時の京都で多額の財を擁していたのは主に権門に限られており、金融業者は彼らの資金需要に応える形で発展しました。
彼らは当初「借上(かしあげ)」と呼ばれていましたが、室町時代に入ると「土倉(どそう)」と呼ばれることが多くなります。これは、堅固な蔵を構える業者が増えたことに由来すると考えられています。土倉は単なる借金の仲介だけでなく、権門の組織的な資金管理、現在の銀行のような役割も担っていました。さらに、各地に保有する荘園からの年貢が権門の主要な財源であったことから、その管理に伴う資金管理業務を金融業者に委ねるようになり、室町時代には荘園経営そのものを代行する土倉も登場しました(中島圭一「中世京都における土倉業の成立」)。
比叡山系に起源を持つ土倉とその影響力
借上や土倉は「山門気風(さんもんきふう)」と称されることがしばしばあります(「元徳2年3月日日吉社並叡山行幸記」)。これは、彼らの多くが比叡山延暦寺(山門)やその末社である日吉社(現滋賀県大津市)、洛東の祇園社(現在の八坂神社)に所属する下級の法師や神人を出自としていたためです(下坂守『京を支配する山法師たち』)。中世の比叡山は近江国を中心に広大な荘園を抱える一大権門であり、その莫大な資金管理には、比較的下級の法師の中から経営能力に長けた者が選ばれ、代官として荘園の管理を行っていました。
そうした中で、特に資金管理に優れ蓄財を重ねた者が、京都で金融業に進出していったと考えられます。鎌倉時代末期(14世紀前半)には、京都に店を構える土倉の数は少なくとも335軒に上っていたことが記録されており(中島圭一「中世京都における土倉業の成立」、山田邦和『京都の中世史七』)、その経済的な影響力は計り知れないものでした。
室町時代の年貢として納められた米俵。荘園経営における金融業者の役割と関連
結び
室町時代の京都経済は、高利貸しや為替手形の普及といった金融システムの発展によって、その活況を維持しました。現金決済の不便さを解消した為替手形、そして専門的な資金管理を担う「土倉」の存在は、当時の商取引や荘園経営に不可欠な要素となり、社会経済の基盤を形成しました。比叡山系に起源を持つ彼らは、単なる金貸しに留まらず、権門の財政を支え、京都の都市経済をダイナミックに動かす重要な役割を果たしたのです。この時代の金融活動は、現代の私たちが歴史を理解する上で、不可欠な側面と言えるでしょう。
参考文献
- 川戸貴史『商人の戦国時代』ちくま新書
- 百瀬今朝雄「利息附替銭に関する一考察」『歴史学研究』二一一
- 中島圭一「中世京都における土倉業の成立」『史学雑誌』一〇一〜三
- 下坂守『京を支配する山法師たち――中世延暦寺の富と力』
- 山田邦和『京都の中世史七――変貌する中世都市京都』





